やっぱり、おつとめに出させていただいてよかった 辻とめぎく – 信心への扉
世界中には、争いごとが絶えません。
親神様は教祖をとおして、人間の心を澄まし、陽気ぐらしへ導く道として、慶応2年から明治15年にかけて「たすけづとめ」を教えられました。
このおつとめの味わいを、教祖のお側で、幼いころからおつとめの鳴物を教えていただかれた先人の姿にもとめたいとおもいます。
琴を習いや
辻とめぎく(明治3・1870年〜明治43・1910年)という先人は、辻忠作の三女として、大和国豊田村(現在の天理市豊田町)に誕生しました。教祖は、生まれる前から、こんど生まれたら名は「とめぎく」やで、とおっしゃったそうです。
父の忠作は、文久3(1863)年から信心をはじめた生え抜きの道の先人です。正直者で、豊田村から教祖のもとへ、いつも通われました。
とめぎくは8歳(明治10年)のときから毎日、教祖のもとへ寄せてもらって、裁縫を習い、のちには、おつとめの鳴物の琴を教えていただきました。
ときどき通わずにいると、かならず身体のぐあいがわるくなり、おやしきへうかがうと、きまってご守護をいただくのでした。
その明治10年、忠作は右肘がたいへん痛むので教祖にお伺いすると、教祖は、
「琴を習いや」
とおっしゃったので、とめぎくに、郡山で稽古琴を買いもとめました。
こうして、とめぎく(8歳)は琴、飯降よしゑ(12歳)は三味線、上田ナライト(15歳)は胡弓と、おつとめの人衆として、それぞれに手をとって、教祖から鳴物を教えていただきました。
『稿本天理教教祖伝』に、「とめぎく」の名は5回みられます。それらは教祖が、おつとめを整えられる段取りと、ぴったりかさなっています。
明治8年6月29日(陰暦5月26日)、かんろだいのぢばが初めて明かされました。その「ぢば定め」において、6歳のとめぎくは、掃き清められた庭を、目隠しをした母ますに背負われて歩きました。
ますは、初めのときは立ちどまりませんでしたが、子どものとめぎくを背負って歩くと、皆とおなじ場所で足が地面に吸いついて動かなくなりました。
明治10年、教祖から、おつとめの鳴物の琴を教えていただき、5年後の明治15年10月の毎日のおつとめでは、琴をつとめています。そして明治16年8月の雨乞づとめにも、赤い着物で出ています。
明治20年正月26日のおつとめにも鳴物をつとめたと、増野日記にあります。翌日に撮影された集合写真の前列中央には、当時18歳のとめぎくの姿があるのです。
にちにちの、ひのきしん
明治13年秋のころ、はじめて三曲をふくむ鳴物をそろえての「よふきづとめ」がおこなわれています。教祖は、
「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう」
と、警察の干渉がはげしく、ためらう人びとにたいして、「心の調子」を合わせておつとめをすることを急がれました。
おつとめをとおして、元初まりの真実と親神様のご守護が教えられます。
父の忠作は、おつとめの地歌と手ぶりを、教祖から最初に教えていただかれた先人のひとりです。教祖直伝の神の話をたくさん伝承していますが、その話は、諸井政一『正文遺韻』(山名大教会)によって読むことができます。
そのなかに、おつとめの地歌である「みかぐらうた」の、十一下り目四ッ「よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる」についての解説があります。
「一日神様へと、つとめるだけがひのきしんやない」といわれて、
よくをはなれたならば、ひまをしいと思う心をもたず、人の事でもすけて(手だすけして)やり、
すたるものは、わがもの、人のものという事なく、一寸すたらぬようにし、
道に石でも出てあれば、人のけつまづかぬよう、片脇へ寄せておく。
総て万事に身をしみをせず、ひまをしいというよくの心を捨てて、気を付けるのが、これがにちにち、少々ずつの、ひのきしん。
とあるのです。
教えを聞きわけ欲の心をすてる。身惜しみや、時間を惜しむ心をもたず、人のことをわがこととしてすべてに心配りをする。こうして、にちにち、少しずつ、つとめさせていただく「ひのきしん」が大切といわれるのです。
わがもの、人のもの、と言っているあいだは、真に教えを聞きわけたことにはならないと、毎日のくらしにおいて、教えどおりに心を澄まして生きる信心の急所が具体的に説かれています。
おつとめの特徴は、声にだして「みかぐらうた」を歌うところにあります。
神様のご守護と、ひのきしんという信心の妙味を、皆といっしょに、しみじみと味わいつつ感じとることができるようにという配慮がみられます。
そのよろこんだ顔を
とめぎくは13歳(明治15年)から出直すまでの28年間、ずっと、おつとめをつとめて通りました。教祖からも、父の忠作からも大切にされて、恵まれた娘時代をおくりました。
やがて分家を立ててもらい結婚生活に入りますが、わずか6年で夫を亡くし、そのうえ、頼りであった父親を亡くします。
一時は途方にくれながらも、おやしきのつとめをいただき、食べることもままならないドン底生活のなか、幼い息子と娘を育てました。
明治43年、かわいがっていた娘を亡くし、その看病疲れから、みずからも風邪をこじらせ、息子をひとりのこして20日の患いで出直されるのです。息子の豊彦は、のちに本部員となり道の重責を担われますが、当時はまだ14歳でした。
前半生とくらべると「気の毒な晩年であった」というようにもいわれます。けれども、どんな難儀な中でも、子どもにはつらい顔をみせずに明るく慈悲深い母であった、と伝えられているのです。
お出直しの17日前の9月26日、風邪で寝ているところ、息子は、おつとめに出させてもらうことを母にすすめました。つとめをおえて帰ってきた母は、いかにもうれしそうに、
「やっぱり、おつとめに出させていただいてよかった」
と言われたそうです。
そして、「そのよろこんだ顔を、いまもはっきりと覚えている」と、息子は、のちのちまで語り伝えています。
おつとめをつとめ、にちにち、心明るくひのきしんの態度で通られた姿がうかぶのです。