“楕円球”を追いかけたラガーマンの歴史 – 特集 天理ラグビー100年
2026・2/18号を見る
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大正14(1925)年に始まる天理ラグビーの歩みは、かしもの・かりものの身体に感謝し、一手一つに楕円球を追いかけたラガーマンの歴史と重なる。この特集では、天理ラグビーの草創期から、創部96年目にして大学選手権初優勝を果たした天理大学ラグビー部の活躍まで、100年の歩みを振り返る。
大正12年、中山正善・二代真柱様が旧制大阪高等学校時代にラグビーと出合われた。同校の同窓会誌『大高』には、「体操の時間になると『先生ラグビーにしましょう』『よし、やれ』と。中山真柱の側につけば、彼にボールを回すことばかり考え、ボールを渡しさえすれば2、3人は引きずってトライしてくれるのでこっちは楽だった」と、二代真柱様の“ラガーマンぶり”が描かれている。
2年後の14年、旧制天理中学校(現・天理高校)と天理外国語学校(現・天理大学)にラグビー部が誕生し、天理ラグビーの歩みが始まる。その際、二代真柱様が旧制天理中に純白、天理外国語学校に純黒のジャージーを寄贈された。
のちに二代真柱様は「ラグビーが流行するかどうか、それは私には問題ではなかった(中略)そのような外的な事よりもラグビー競技の持つ精神と動作に多少以上に興味を持っていた私は、『これならうちの学校に移植してもよい』と思った」(『蹴球十年史』)と語られている。
昭和11年、旧制天理中が創部10年目にして全国大会で初優勝に輝く。天理外国語学校も昭和5年、全国高専大会に初出場した。
25年には現在の天理中学校にラグビー部が、46年には幼稚園児から楕円球に親しめる「やまのべラグビー教室」が誕生し、天理のラグビー熱は、ますます高まっていく。
そして59年、親里競技場にラグビー場が完成。平成14年には「天理ラグビークラブ」(TRC)が設立され、幼児から大学まで一貫指導できる現在の天理ラグビーの環境が整った。
TRCの設立総会であいさつに立った中山善衞・三代真柱様は、二代真柱様がラグビーを奨励された思いについて、次のように言及されている。
「父が柔道やラグビーに興味を持ち、これらの競技を通して若い人を育てたいと考えたのは、親神様に与えていただいた健康に心より感謝し、与えていただいた徳分を伸ばす過程で、親神様の思召である陽気ぐらしをしっかりと味わってほしいということであった」
令和3年 創部96年目にして
悲願の大学選手権初優勝
天理高ラグビー部は創部10年目に全国大会で初優勝したのち、昭和38年、2回目の頂点に立つ。その後、“黄金期”を迎え、40、41の両年、2年連続の準V。42年に3回目の優勝に輝くと、44年から46年にかけて、3位、準優勝、優勝と階段を上り、4回目の日本一に。59年と平成2年にも頂点に立ち、強豪校としてその名を全国に轟かせた。
また、天理高第2部ラグビー部も計4回全国大会に出場している。
一方、天理大ラグビー部は、昭和48年から50年にかけて関西リーグ3連覇を達成したものの、平成4年にCリーグ落ちを経験する。
低迷する同部を救ったのは、小松節夫氏(天理高OB)。翌5年にコーチ、7年に監督に就任すると、13年にAリーグ復帰を果たし、17年にはチームを21年ぶりに大学選手権へと導いた。
そして24年、のちに日本代表を務める立川理道主将を擁する同部は、大学選手権で初の決勝に進み、帝京大学に12‐15と肉迫。初の準優勝に輝いた。
31年にも準優勝した同部。その歴史を塗り替えたのは令和3年。新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、同部は「緊急事態宣言」が発出された間の活動自粛を経たのち、8月に部員の新型コロナ陽性が判明。治療や待機を余儀なくされたが、市民やファンの声援を受け、「活動再開を信じて前を向こう。日本一で恩返しを」と自粛中もオンラインでトレーニングを続けた。
9月、活動再開。練習不足による課題は残ったが、関西リーグ5連覇で大学選手権へ。明治大学などを破り、3度目となる決勝の舞台に立った。
前大会王者・早稲田大学との決勝戦は、フォワードとバックスが「一手一つ」となった鮮やかなプレーで計8トライを挙げ、決勝史上最多得点(当時)となる55‐28で圧勝。創部96年目にして悲願の大学選手権初優勝を掴んだ。
天理大ラグビー部の雄姿を食い入るように見つめていた“天理ラグビーファン”たちはこの日、喜びに沸いた。

「世界を目指して練習してほしい」
「リーグワン」の現役選手がエール
天理ラグビー100周年記念式典 トークショーから
「天理ラグビー100周年記念式典」のトークショーでは、ラグビージャーナリストの村上晃一氏と、管内学校OBで日本ラグビーの最高峰「ジャパンラグビーリーグワン」でプレーする立川理道選手(クボタスピアーズ船橋・東京ベイ所属)、藤原忍選手(同)、松永拓朗選手(東芝ブレイブルーパス東京所属)、この日の前日にコベルコ神戸スティーラーズのアーリーエントリー(最終学年の大学生の出場を認める制度)選手としてデビューし、3トライの活躍を見せた上ノ坊駿介選手(天理大4年)が登壇した。
トークショーではまず、村上氏が「天理は日本のラグビーを支えてきた場所だと思う」と所感を述べた。
その後、各選手が天理ラグビーにまつわるエピソードを話す中で、藤原選手は「天理で基本的なプレーを、より高い精度でやり抜くことの大切さを学んだ。しんどいときこそ手を抜かずにやり続けることは、いまのチームでも実践している」と語った。
また、松永選手は「子供たちが天理ラグビーを見たときに、『ここでラグビーをしたい』と憧れる存在であってほしいし、そういう役目を意識し続けてほしい」と呼びかけた。
立川選手は「世界を目指して練習してほしい」と学生・生徒らにエールを送ったうえで、「レフェリーをはじめ、さまざまな場所で天理ラグビーの人たちが活躍し、日本のラグビーに貢献できるようになればと思う。私たち現役選手も学生の目標となれるよう、しっかり行動で示していきたい」と話した。
コラム 兄弟校対決の行く末は…
昭和60年11月、全国大会出場を懸けた「高校ラグビー大会奈良県大会」決勝戦は、6年連続で天理高と天理教校附属高校の顔合わせとなった。
一人を除いて高校からラグビーを始めたメンバーで構成されていた附属高は、“高い壁”への秘策を用意。鍛え抜いた鋭いタックルでボールを奪うと、タッチキックを多用して相手チームにプレッシャーをかけていく。後半、リズムを崩した天理高の隙を突き、トライとコンバージョンキックを決めて6‐6。試合は両校優勝となり、抽選の結果、附属高が初の「花園」への切符を手にした。
試合後は、天理高がスクラムの練習相手となり、全国大会に向けて準備。全国大会では、初戦の2回戦で作新学院高校(栃木)に17‐3で勝利した。
天理大ラグビー部の軌跡をたどる
天理大ラグビー部が大学の頂点に立つまでの歴史を、写真や映像、当時の『天理時報』で振り返る特設ページ「挑み続けた魂の軌跡――『天理時報』でたどる、天理大学ラグビー部の物語」を閲覧できる。
https://doyusha.jp/tenri-rugby









