「思う」から「思案定め」へ – 視点
人間は1日に6万回、何かを考えているとされ、その思考の大部分は「思う」に占められている。「思う」とは、ただ単に頭に思い浮かんでくる状態を指す。何かしらに書き留めなければ、そのアイディアは次から次へやってくる思考に埋もれてしまう。
そこで、やるべきは「意識的に思う」=「考える」ことであろう。これを、お道では「思案」と捉えられるのではないか。思案とは、あれこれと思い巡らすことだが、「しあんさだめ」「こゝろさだめ」と言われるように、親神様の思召に適う一つの考えにたどり着くことが大事だと思う。
思うだけでは何も変わらない。「考える」に至れば、何かの成果を生む可能性がある。「思う」から「考える」に変えていくことで、人生が有意義になる。具体的には「思ったら、即実行する」こと。頭に浮かんだことで、いまできることや、したいと思うことは、その場で実行すること。これに限る。時には「明日できることは、今日しない」という先送りも必要かもしれないが、常時それでは何も成し遂げられないというのも道理ではないか。
教祖がご執筆された「おふでさき」の中にも、いまの決断を促すうえから、「さあ」という言葉がよく用いられた。「さあたのむなにをたのむとをもうかな はやくなりものよせてけいこふ」(十五号72)「さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで」(十六号79)などと、その決断を急き込まれたのは、思召に沿う決断が多くなればなるほど、私たちの成人が進むからだと思う。
そして、その向かう先は、具体的行動目標としての「つとめ」と「さづけ」ではないだろうか。その実行に向けて、考えて具体的に行動に移す。“タイパ”(かけた時間に対する満足度)や“コスパ”(費用対効果)を重視するのもいいが、要はようぼくとしての本当の「思案定め」が肝心ではないだろうか。
(永尾)











