天理時報2024年6月12日号3面
【入社2カ月で仕事を辞めたいという娘 – 人生相談】Q. 今年4月に新社会人になったばかりの娘が、「配属先が希望と違ったことに納得がいかない。すぐにでも仕事を辞めたい」と言っています。親としてはもう少し頑張らせたいのですが、どう伝えるべきでしょうか。(50代男性)A. 最近、身近に同じような話を聞くことが何度もあり、気になっていたところにあなたの相談を頂きました。昔の私なら、「何考えてるの!」と一喝して終わりだったかもしれません。しかし最近は、さまざまな学びを深め、まずは相手の気持ちを慮ることの大切さを知るとともに、どう声をかけたら心を開いてもらえるのかを常に考えるようになりました。娘さんは希望する配属先で、どんな仕事がしたいのでしょう。父娘でじっくり会話ができるチャンスですよ。ぜひ話に耳を傾けてください。そのうえで、社会人の先輩として、また娘の幸せを願う父親として、アドバイスできることは大いにあると思います。経験談や失敗談、そして、どんなときも親神様・教祖に護られてきた日々であることを伝えたいものです。就職して2カ月で仕事を変えたいというのは、一見すると軽率な行動にも感じられますが、勇気がなければできないことだとも思います。娘さんの本気度を見極めて、失敗も受けとめ、見守り、大きく羽ばたいてくれることを応援できればいいですね。「親として娘を納得させるには、どうすればいいか」。はて、これは人に相談している場合ではありませんよ。お父さんの本気度も試されているのですから。回答者:吉福多恵子(濃飛分教会前会長夫人), 【ようぼくの実動を後押し – にをいがけドリル】布教部(土佐剛直部長)は5月26日午後、「にをいがけドリル」をおやさとやかた南右第2棟で実施、10人が参加した。この取り組みは、布教意欲のあるようぼくの実動を後押しするもの。にをいがけに対して不安のある人が、ロールプレーイングを通じて自信をつけ、継続して取り組むためのプログラムを提供している。今回のテーマは「やってみよう路傍講演」。初めに、あいさつに立った村田幸喜・布教二課長は、にをいがけをするうえで大切なのは実行することと続けることだとして、今日の学びを単なる経験に終わらせず、三年千日の実動につなげてもらいたいと話した。続いて、西村和久・布教部研究室室員の進行のもと、二つの班に分かれてグループワーク。自己紹介の後、「にをいがけフリップ」などを使った路傍講演や、二人一組でリーフレットを手渡すシミュレーションに取り組んだ。この後、参加者たちは天理駅まで神名流し。駅前では、グループに分かれて路傍講演とリーフレット配りを行った。この日、初めて路傍講演に立った松田恵美子さん(54歳・大義分教会ようぼく・東京都大田区)は普段、製薬会社で働きながら、時間を見つけては神名流しに歩いている。「緊張や不安もあったが、参加した皆さんが常にそばにいてくれたので、無事に終えることができた。今後は路傍講演を行ってから神名流しに歩きたい」と話した。◇「にをいがけドリル」は、8月、11月、来年2月の各26日午後1時半から、おやさとやかた南右第2棟で行われる。各回とも定員は20人。締め切りは開催日の1週間前。問い合わせは布教二課まで。TEL:0743‐63‐2245(午前9時から午後4時半まで)申し込みは下記からhttps://fukyo.tenrikyo.or.jp/top/?page_id=23339, 【創立130周年記念祭 – 仙臺大教会】仙臺大教会(加藤元一郎会長・仙台市)は5月4日、中山大亮様、中山はるえ様を迎え、創立130周年記念祭を執り行った。記念祭当日は、大教会につながる大勢の教友が参集。最初に、真柱様のメッセージを、大亮様が代読された。続いて、陽気な心で一手一つにおつとめを勤め、参拝者も勇み心いっぱいにお歌を唱和した。この後、加藤会長は大亮様、はるえ様にお礼を申し上げ、参拝者に向けては「教祖140年祭に向かって、心一つに年祭活動を勇んでつとめ、ご存命の教祖にお喜びいただこう。そして、その決意を、今日の記念祭を迎えた私たちの誓いとさせていただこう」と呼びかけた。祭典後は、模擬店や音楽ステージでにぎわった。(仙臺大・韮沢社友), 【自らの姿を見る「離見の見」- 視点】自転車の交通違反に反則金を納付させる「青切符」による取り締まりの導入を盛り込んだ改正道路交通法が可決・成立した。信号無視や携帯電話を使用しながらの運転などが取り締まられることになる。その背景には、近年の自転車事故の増加がある。一昨年、自転車が関係する事故で死亡や重傷になった7,107件のうち、5,201件で自転車側に交通違反が確認されたという。イヤホンを付けスマートフォンを手に背後を気にせず道を横切ったり、猛スピードで歩道を走ったりする自転車に、ヒヤリとした経験を持つ人は多いだろう。そんな運転者の心理として他者の軽視、自己中心、過信などさまざま挙げられるが、社会の中で自らを律するためには、自分を客観視する感覚も必要ではないか。司馬遼太郎の紀行随想『街道をゆく』の挿絵画家の安野光雅氏は、眼前の風景を描くとき、頭の中で空中に舞い上がると語る。地上でスケッチをしながら眼下を見る俯瞰の視点である。それがないと、眼前の山や林や家々の後ろにある空気は描けないという。ある父子の挿話を思い出す。満月の夜、父親がわが子をおんぶして月明かりの道を歩いていた。すると、道沿いのおいしそうに赤く熟した柿につられて、父親が思わず手を伸ばした。柿をもぎ取ろうとしたそのとき、背中からわが子の声が飛んだ。「お父ちゃん、お月さまがみているよ」世阿弥が説いた能の境地に「離見の見」という言葉がある。目は前を見て、心を後ろに置けという。客席から見た姿は「離見」、自分の目で見る姿は「我見」。自分の後ろ姿がどのようであるかが分からなければ、姿の拙さにも気がつかず、真に自らの姿を見ることはできないと説く。空中から自分を見てみる。おたすけをする自分、たすけられている自分。いずれも、わが姿である。「教祖からは、いまの自分がどう見えているのだろうか」。教祖年祭へ向かう旬、自らの成人への歩みを思うとき、そんな離見の見も大事かもしれない。(加藤)