天理時報2022年8月10日号8面
【「田の修理」に信心の歩みを重ね – おやさと瑞穂の記 その4】おやしきの北東には、教祖のご在世当時の風景を彷彿させる豊かな田園風景が広がり、親神様にお供えするお米が昔ながらの方法で栽培されている。今回は、夏の間の「田の修理」について紹介する。6月に植えた小さな苗は、8月初旬には50センチほどに成長していた。この時期に、これほど急速に成長するのは、燦々と降り注ぐ太陽の光と高い気温、豊かな水、そして常に吹きわたる風のおかげだ。その様子に、親神様の「火水風」の大いなるお働きを感じずにはおれない。とはいえ、火水風の恵みを頂いているのは稲だけではない。この季節、すべての植物の生育は旺盛だ。苗を植えただけで、あと何もしなければ、田んぼの中にもたちまち他の草が生えてくる。稲以外の草の成長を放っておくと、栄養分が取られて稲の生育の妨げとなるので、夏の間はひたすら除草をし続けなければならない。専用の器具で稲と稲の間の土を掻いて草を削いでいく除草は、専用の器具で田んぼの土を掻いて、生えかけた草を削いでゆく。これは同時に、固まりかけた土を耕すことにもなるので、昔からこの作業を「中耕」というそうだ。ここでのお米づくりは農薬を使わないので、除草もやはり人手が頼りとなる。教会本部管財部の担当者・森本孝一さんに聞くと、毎年7月から8月にかけての除草作業に、青年会や専修科生延べ300人以上がひのきしんに駆けつけて汗を流すという。作業はいたって簡単。田んぼの中に入って稲の株と株の間の土を器具で掻いていくのだが、この時期は高温と蒸し暑さの中での過酷な作業となる。田んぼの草は、取っても取っても、いつの間にかまた生えてくることから、お道の先輩は、これを「ほこり」や「いんねん」に譬えて話していたと聞く。森本さんによると、この作業は、稲に穂が付き始める8月下旬まで、すべての田んぼに、少なくとも10回は行うという。この苦労は、秋の豊かな稔りを迎えるためになくてはならないものなのだ。おふでさきに、このたびハどのよな事もしんぢつをゆうてきかしてたすけいそぐでこのひがらいつころなるとゆうならばたあのしゆりをしまいしだいにそれからハなにかめづらしみちになるつとめのにんぢうみなよりてくるたん/\とにち/\心いさむでななんとやまとハゑらいほふねん(十号15〜18)とのお歌がある。『おふでさき注釈』によると「たあのしゆり」とは「田の修理」で、「除草、中耕」のことであると解説されている。中耕に使われていた昔の農機具この前後一連のお歌を通して、親神様は、たすけを急ぐうえから、まず人々の心の修理にかかり、それが終わり次第、つとめの人衆となる人材が寄ってきて勇んだ道の姿となっていくという、道の順序を示されているのではないか。お米づくりにおける「修理」に、私たちの信心の歩みを重ね合わせ考えてみたい。(文=諸井道隆)下記URLから、「おやさと瑞穂の記」の過去記事を見ることができますhttps://doyusha.jp/jiho-plus/pdf/oyasato_mizuho.pdf, 【第21話 心を打たれる光景 – ふたり】午後からカンは、さとしを農場へ連れていった。事情を聞いている省吾さんは、少年を豚の餌やりに誘った。「ここの豚は食べる力を自分で手に入れていく。与えられる飼料を食べているだけじゃあ、生きる力は身に付かない。生きる力っていうのは、要するに生き延びる力だ。わかるか?」言葉の勢いに押されたという感じで、さとしはうなずいた。「いいことを教えてやろう。おまえの両親を無人島へ連れていく。ロビンソン・クルーソーって知ってるか?」今度はさっきよりもしっかりとうなずいた。「ああいう絶海の孤島に放り込まれたら、その日のうちに食べ物の心配をしなきゃならない。鳥を獲ったりカメを獲ったり、野生の山羊を飼い慣らしたり。喧嘩などしている暇はない。うすぼんやりした生ぬるい現実のなかで生きているから、つまらないことにうつつをぬかすんだ」省吾さんはしばらく考え込んだ。「まあ、おまえにこんなことを言ってもしょうがないな。とにかく生き延びなくちゃならない。そのために生きる力を身に付けることだ」わかったような、わからないような話を切り上げて、省吾さんはどこかへ行ってしまった。あとはカンが引き受けた。言葉を喋らなくなった少年と、かつて言葉を喋らなかった青年が、いまは一緒に農場のなかを歩いている。それは不思議と心を打たれる光景だった。この世界にはいろんな人が暮らしている。カンは言った。みんな苦労して生きている。貧しい国も多い。外国を旅していると、なんだか自分の悩みがちっぽけなものに感じられた。外国へなんか行きたくない。さとしは言った。ずっとここにいて、カンと一緒に暮らしたい。ぼくはずっとここにいる。ここで料理を作ったり、写真を撮ったりしている。そしてときどき、さとしのことを考える。どこで暮らしていても、さとしはひとりじゃない。少年の目から涙が溢れた。胸を締め付けられる思いとともに、わたしのなかに甦ってくる情景があった。ベッドで眠っている少年のカンは、ときどき夢にうなされることがあった。閉じられた目から溢れた涙は、頬を伝って静かに流れた。かつてのカンの涙を、いまはさとしが泣いている気がした。どうやらパンによっても涙によっても人はつながるものらしい。おいしいことと悲しいことは、人間にとって同じ意味をもつのかもしれない。ちなみに犬は涙を流さない。そのことを残念と思ったことはない。作/片山恭一 画/リン