天理時報2022年7月20日号6面
【退職後の人生の指針を得る – 修養科の四季】第970期 森 武さん 71歳・広島県福山市・廣沼分教会所属未信仰だった私が、天理教を信仰するようになったのは妻との結婚がきっかけだった。妻の家族は、皆揃って熱心な信仰者。一方の私は、宗教にほとんど関心がなかった。妻に誘われ、教会へ参拝するようになったが、あくまで人付き合いの一環だった。その後も会長さんに勧められて、月次祭で雅楽や鳴物を務めてはいたものの、自ら教えを求めようとはしなかった。しかし、年を重ねるにつれて、長年、教会へ通っていながらお道の教えをほとんど知らないことが心に引っかかるように。いつか修養科で教えを学びたいという思いが強くなった。仕事の都合がつかないまま日が経ってしまったが、退職を機に修養科を志願した。昼休みには、修養科生有志がおてふりの練習をしている30年前のほこりの心づかいを自覚し初めての親里での生活は新鮮そのものだった。困っている人がいれば、周囲の人が即座に手を差し伸べる。ひのきしんの時間には、年齢にかかわらず皆が一手一つに生き生きと作業に勤しむ。そうやって教えを素直に実践して、たすけ合う姿は非常に清々しく、お道の人々の優しさが感じられる素晴らしいものだった。そんな人たちに囲まれて過ごすうちに、私の心にも少しずつお道の教えが染み込んでいった。そしてあるとき、ふと昔の出来事が頭に浮かんだ。40歳のころ、原因不明の顔面麻痺を患った。医師からは「治療に半年から1年はかかる」と言われた。日常生活にも支障が生じ、なかでも困ったのが、所属教会の月次祭の祭儀式で雅楽を演奏するときだった。龍笛を担当していたが全く音が出ない。代わりの人もいなかったので、なんとかしなければと鳴らない笛を毎日吹き続けた。そうこうするうちに、月次祭の前夜になって突然小さく音が出た。本番ではそれなりに吹けるようになり、祭典は無事終了。気がつけば、顔面麻痺も治まっていた。発症からわずか20日ほどでの回復に、妻は「大きなご守護を頂いたね」と喜んだ。しかし当時の私は、自らの努力で治したのだと言い張った。あれから30年。教えを学んだいま、当時を振り返ると、自分がどれほどこうまんな心づかいをしていたのかと気づかされる。親神様から頂いたありがたいご守護を、自らの心のほこりで見えなくしていたのだ。親神様に心から感謝を申し上げるとともに、これまでの心得違いをお詫びした。そして今後は、これまで頂いてきた数々のご恩に報じる通り方をしようと心に定めた。退職後の人生をどう歩もうかと思いを巡らせていたが、修養科を志願して、私よりも年上の方々が、体が不自由な中も勇んでひのきしんやおたすけに取り組んでおられる姿を目の当たりにした。私も体が動く限り、親神様・教祖に喜んでもらえるよう、ひのきしんやおたすけに努めたいと思う。◇修養科を了え、教会の朝夕のおつとめに日参させていただくようになった。日中は、ひのきしんとして、地域の草刈りなどのボランティア活動に積極的に参加している。やろうと思えば、ようぼくの仕事はいくらでもある。親神様のご守護に感謝し、世のため人のために尽くす活動を続けていきたい。, 【二人の天皇から愛された…? – よろずの美の葉】自著の宣伝をしたいわけではないが、このたび万葉女流歌人として知られる額田王が主人公の小説を上梓した。一昨年から去年まで新聞に連載していた作で、奈良・平安時代を多く小説に描いている私にとっても、もっとも古い時代を扱った小説となる。皆さまは額田王にどんなイメージをお持ちだろう。その代表作は、蒲生野という現在の滋賀県東部の野原で詠まれた「茜さす 紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る」。のちに天武天皇となる大海人皇子が、それに「紫草の におえる妹を憎くあらば 人妻ゆえに我恋ひめやも」と返歌を詠んだ逸話をご存じの方も多いだろう。「紫草の茂る野を行きつつ、野原の見張りは見ないでしょうか、あなたが恋人を呼ぶように袖を振るのを」「紫草のように美しいあなたが嫌なら、人妻なのに何故あなたを恋いましょうか」という歌の往還は、一見、恋歌とも見える。実際『万葉集』には、これらの他にも「額田王が近江天皇(天智天皇)を慕って作った歌」との説明付きの歌も収録されており、これらから額田王は兄弟である天智・天武天皇の双方から愛された恋多き美女としばしば考えられている。額田王は生年がはっきり分かっていないが、「茜さす」「紫草の」の二首が詠まれたとき、40歳前後だったと推測される。ちなみに天武天皇も同じく生年不明であるが、兄である天智天皇との年齢差を考えても、額田王より年下とは思い難い。現在の40歳といえばまだまだ花も実もある年齢だが、当時は平均年齢が短く、40歳はもはや高齢者と考えられていた。そんな年の二人が、この歌を詠んだとき恋愛関係にあったとは考え難く、最近ではこれらは宴席の余興として詠まれたとの説が主流だ。また『万葉集』が編纂されたころには、額田王はすでに代表的な女性歌人と位置付けられており、全く無関係な他者の歌が額田王の作とされ、事実とは異なる説明が付け加えられたとの説もある。つまり「二人の天皇から愛された」との額田王像は史実ではない可能性があるのだ。ちなみに古代日本では男性の官吏と併せて、女官たちが天皇を支える女性官僚として多く活躍していた。だとすれば、額田王もまた天皇に仕える「働く女性」だった可能性もあるのだが、残念ながら現実の額田王がどんな人間だったすべのか確かめる術はない。とはいえ資料を丁寧にひもとけば、これまでとは異なる新たな歴史像が見えてくる。それが面白くて私は歴史小説を書いているのかもしれない。作家 澤田 瞳子