天理時報2022年8月24日号8面
【第22話 変わっていくチャンス – ふたり】カンのレストランに保苅青年とのぶ代さん、ハハの四人が集まった。外は雨が降っている。店のなかには三拍子のピアノ曲が流れている。恒例の夕食会だが、いつものように話ははずまなかった。雨のせいばかりではないだろう。さとしと母親は、省吾さんのところに身を寄せて何日か過ごしたあと、支援センターの相談員やソーシャルワーカーの仲介によって、夫とは離れたところにアパートを借りて生活することになった。今後は継続的な援助を受けながら、法律や弁護士の力を借りることになりそうだ。「あの人の話を聞いていると、こっちまで元気がなくなってくる」。のぶ代さんが悲しそうに言った。「無力感って伝染するのかもしれない。安易に同情しちゃいけないって思った」カンは新しい料理を用意するために席を立った。料理はすでに調理してあり、あとは温めるだけだ。陶器の器のなかで、海老とキノコがオリーブオイルとニンニクで煮込んである。「頭にくるのは、暴力がかならず弱い者に向けられること」。のぶ代さんは先ほどとは口調を変えて言った。「連れ合いには暴力を振るう亭主も、会社の上司を殴ったりはしないわけでしょ?」「二人になると人は違ってくるから」。ハハは料理を小皿に取り分けながら言った。「さとし君のところも、お父さんという一人の人間を見れば、悪い人じゃないのかもしれない。でも夫婦のなかでは、悪い人になってしまう」「夫婦や親子でもそうなんだから、他人が大勢集まった社会がうまくいかないはずですよね」。のぶ代さんは言った。言葉が途切れているあいだに、ハハが流れている音楽のことをたずねた。「リパッティ」とカンが答えた。ピアニストの名前らしい。「はじまっていない人なのかもしれないな」。保苅青年がひとりごとみたいに言った。のぶ代さんはもの問いたげに夫を見た。「ぼくがそうだったから」。彼は店の音楽に耳を澄ますような表情で言った。「どうやって自分をはじめればいいのかわからなかった。そして、はじまらない自分を壊そうとした。さとし君のおとうさんは、自分を壊すかわりに他人を攻撃しているのかもしれない」のぶ代さんは困ったようにハハを見た。「でも生きているんだから」。ハハは穏やかな声で言った。「生きているかぎり、いつでもはじめることができる。変わっていくチャンスがある」わたしにはハハが、死んだトトのことを想っている気がした。作/片山恭一 画/リン, 【「つなぐ心ひとつに」夏の甲子園で奮闘 – 天理高野球部】天理高校野球部は、8月6日に兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕した「全国高校野球選手権大会」に出場。熱戦を繰り広げたが、2回戦で長崎代表の海星高校に2‐4で敗れた。◇5年ぶりに出場した同部は、初戦で山梨学院高校と対戦した。この日、天理高応援団のアルプス席には「つなぐ心ひとつに天理高校野球部」と染め抜いた紫の横断幕が掲げられた。天理高のアルプス席に、生駒高が制作した「つなぐ心ひとつに」の横断幕が掲げられたこれは、県予選決勝で対戦した生駒高校から贈られたもの。決勝前日に新型コロナウイルス感染疑いのある選手が複数人いることが分かり、主力を欠く緊急事態に陥った生駒高。試合は思わぬ大差がつき、天理高の選手が相手のチーム事情を配慮し、勝利の喜びを表さずに整列した。その姿に感銘を受けた生駒高側が「頑張ってほしいという思いを伝えたい」と横断幕を制作したという。天理高野球部保護者会の渡辺宏会長(50歳・奥平野分教会ようぼく)は「野球の強さとは別の、子供たちの精神的な部分を評価していただき、親としてもとてもうれしく思った」と話す。生駒高の選手の思いを胸に初戦に臨んだ天理高は、先発・南澤佑音投手(3年)がストレートとスライダーを低めに集め、相手に得点を許さない。四回裏、戸井零士キャプテン(同)が二塁打を放って出塁すると、内藤大翔選手(同)のセンター前ヒットで天理高が先制。六回にも追加点を挙げた。2‐0で迎えた九回表。2アウトから1点を返され、内野陣がマウンドに集まる。このとき選手たちは、ユニフォームのポケットから「底力」と書かれたカードを取り出した。これは2017年、当時の副部長が選手を奮起させようと「底力」と墨書し、練習場ベンチに掲げた書をカードにしたもの。自分たちのプレーを信じ、勝負どころで力を発揮しようと、「底力」を合言葉に夏の甲子園に臨み、ベスト4入り。以来、同部の選手はカードをポケットにしのばせて大会に出場している。一打逆転のピンチが続く場面で落ち着きを取り戻した南澤投手は、最後のバッターを打ち取り、2‐1の接戦を制した。天理高野球部は5年ぶりの夏の甲子園で1勝を挙げ、校歌を斉唱した(8月8日)この勝利で、天理高は夏の甲子園通算49勝を記録し、勝利数で全国単独4位となった。続く2回戦では、天理高に招待された生駒高の3年生部員がスタンドで観戦するなか、海星高と対戦した。試合は、序盤から海星高に連打を許し、点差が離れていく。天理高は四回と八回に満塁のチャンスをつくるも、あと1本が出ず、2‐4で敗れた。中村良二監督(54歳)は「3年生を中心に、よくやりきってくれた。最後の最後に食らいついて、同点、逆転を狙ったが、相手が一枚上だった」と、選手たちの奮闘を称えた。戸井キャプテンは「守備からリズムをつくって攻撃につなげるという自分たちの野球はできたが、1点を取りきれなかった。試合前に生駒の選手が応援に来てくれると聞いて、絶対に勝とうと皆で話していた。試合を見てもらっていると思って全力でプレーしたので、何かを伝えられたのでは」と話した。