天理時報2022年8月31日号6面
【月に池を視た男 – 日本史コンシェルジュ】俳句や和歌で「月」と言えば、それは秋の月を指します。そう、「月」は秋の季語。夜空が澄みわたる秋は、月がことさらに明るく美しく輝くからです。その月を天体として観測し、日本人で初めて観測図を描いた人物が、江戸時代中期の天文学者・麻田剛立です。幼少期から太陽と影の関係や月の動きに興味を抱いた剛立は、独学で天文学を深め、ついに宝暦13(1763)年9月1日、当時の暦にはなかった「日食」を予測し、見事に的中させます。このとき彼は、故郷の杵築藩(現在の大分県杵築市)に仕える医師でしたが、のちに天文学に専念するため大坂へ出て、町医者として生計を立てながら天文学の塾を開き、生き生きと活動を始めました。当時の研究者は閉鎖的で、弟子にさえ研究成果を明かさない者も多いなか、剛立は各地の研究者と交流し、惜しげもなく知識を分かち合ったので、才能あふれる者たちが自然と剛立のもとに集まりました。当時、天文学を究めるには「観測機器」「数学」そして西洋の知識を吸収するための「語学」が必要でしたが、この三つの分野で、剛立の弟子や孫弟子から天才が育ち、最先端を行く科学者集団が形成されたのです。あの伊能忠敬も、剛立の孫弟子の一人です。剛立は44歳のとき、当時の日本に2台しかなかった英国製の反射望遠鏡を入手し、月や天体の観測データを集めています。望遠鏡は大変高価でしたが、金銭的に余裕のない剛立のために、弟子や友人が奔走してくれたのです。剛立は観測結果をもとに、日本初の月面観測図を作成し、月を「重い疱瘡の病にかかった人のようだ」と表現し、クレーターを「池」と書き記しました。実は剛立は、天文学や医学(特に解剖学)の分野で目覚ましい業績を残していますが、本人が記録したものはほとんど残っていません。彼の業績は、弟子や友人の著述、さらに彼らと剛立が交わした手紙から明らかになっており、その素晴らしさを世界が認めています。寛政11(1799)年、剛立は65年の人生に幕を閉じましたが、それから約180年後の1976年、国際天文学連合は数ある月のクレーターの一つを「アサダ」と名づけました。月のクレーターにはコペルニクスやアインシュタインなどの名前もあり、彼らと並ぶ世界的な科学者として、麻田剛立の名は月に刻まれたのです。, 【ようぼく子弟 大病乗り越えマウンドへ – 東京の橋本光さん】「病気の子供たちの希望に」との思いを胸に、19歳の高校球児がマウンドへ――。東京都の足立新田高校野球部の橋本光さん(3年・貞鳳分教会長後継者、修さんの次男)は、先ごろ行われた「全国高校野球選手権大会」東東京大会に出場。4年前、「骨髄異形成症候群」を患いながら、厳しい闘病生活を乗り越え、ピッチャーとしてマウンドに立った橋本さんの姿が、新聞や雑誌など各種メディアで大きく取り上げられた。小学1年で野球を始め、中学時代はクラブチームの主将を務めた。3年の秋、白血球や血小板などの異常から正常な血液細胞が造られなくなる「骨髄異形成症候群」と診断された。「もっと野球がしたい――」。そう願った光さんは、父親の修さんと相談のうえ、病気を治してから高校へ進む道を選んだ。翌年8月、骨髄移植手術を受けた。入院中、強い副作用に苦しむ光さんに修さんがおさづけを取り次ぎ、「必ず元通りになるから、いまは治療に専念しよう」と声をかけ続けた。「父の言葉が励みになった」という光さん。リハビリを経て翌年2月に退院。1年遅れで足立新田高へ進学した。どんなときも最高の投球を野球部に入部し、2週間に一度の通院をしながら練習に打ち込んだ。2年の秋に公式戦で初登板。「緊張したが、再び野球ができるうれしさでワクワクした」3年生で迎えた今大会。闘病生活を振り返り、「どんな体調でも最高の投球をする。自分のプレーが、同じような病気の子供の希望になれば」との思いでマウンドに立った。中継ぎで登板した初戦は、2回を打者6人で打ち取ると、続く2回戦は先発登板し、チームの勝利に大きく貢献。3回戦も先発したが、接戦の末、惜しくも敗れた。大会中、多くのメディア取材を受けた。3回戦の翌日、記事を見た同じ病を患う子供の母親からはがきが届き、光さんの雄姿に励まされたことへの感謝の言葉が綴られていた。光さんは「身上を通じて、人のためにできることがないかと考えられるようになった。これからも感謝の思いを常に持ち、自分にできることを果たしていきたい」と話している。(日本橋大・大西社友情報提供), 【高齢者叙勲 瑞宝単光章 – 兵庫の深田徳次さん】“おたすけの心”で地域の防災活動深田徳次さん(写真左)神戸市の深田徳次さん(88歳・神加分教会八幡布教所長)は、54年間にわたり消防団活動に従事した功績が認められ、高齢者叙勲の「瑞宝単光章」を受章した。昭和29年、地元消防団の先輩の勧めで入団して以来、「自分にできる人だすけをさせてもらおう」との思いで地域の消防活動に取り組んできた。平成7年の阪神・淡路大震災の際は、自宅周辺に火の手が迫るなか、「一人でも多く被災者をたすけたい」と消火活動に奔走した。そのさなかに、親神様の不思議なお働きを感じる出来事をたびたび経験。以後、より一層地域の防災活動に励むようになったという。10年には兵庫県知事賞を受賞。16年からは副団長を務める傍ら、4年にわたって後進の指導にも力を尽くした。深田さんは「おたすけに熱心だった祖母の影響で、幼いころから『人の役に立ちたい』という思いがあった。“おたすけの心”で地域の防災活動に努めるうちに、困っている人を見ると自然と体が動くようになった。これからも自分にできるおたすけをさせてもらいたい」と語った。(兵庫・阪本社友情報提供)