天理時報2021年11月10日号6面
「松下政経塾」一行が親里へ研修訪問「命知元年」を追体験松下電気器具製作所(現・パナソニック)創業者である故・松下幸之助氏が設立した「公益財団法人松下幸之助記念志財団松下政経塾」の一行6人が10月22日、親里に来訪。本部神殿で参拝した後、住原則也・天理大学教授の案内で、幸之助氏が訪れたとされる管内施設を巡った。松下政経塾は昭和58年、当時の混迷を極める国情を憂えた松下幸之助氏が、新たな国家経営を推進する指導者の育成を目指して設立したもの。4年間の実習や研修を経て、多くの卒塾生が、政治家や会社経営者として第一線で活躍している。今回の来訪は、今年入塾した4期生5人が、塾主・幸之助氏の考え方を学ぶ研修として行われたもの。幸之助氏は昭和7年3月、天理教信者の知人に熱心に誘われ、初めて親里を訪問。神殿をはじめ、管内施設を約10時間にわたって見学した。当時は、教祖50年祭へ向かう「昭和普請」のさなかであり、氏は全国各地から寄り集った大勢の信者がひのきしんに励む姿に深い感銘を受けたとされる。同年5月5日、幸之助氏は製作所の全社員を集め、天理で見たことを話したうえで、独自の経営哲学を宣言。自らの使命を知った昭和7年を「命知元年」と定め、5月5日を「第一回創業「記念日」として、事業の理念や組織体系を一新した。■塾主ゆかりの地を訪ねてこの日、インフォメーションセンターに集合した一行は、幸之助氏が天理を訪れた際に見学した施設について、当時のおぢばの風景写真などをもとに、住原教授から説明を受けた。その後、保安室境内掛員の案内で三殿参拝。続いて、教祖墓地、天理大学1号棟(旧天理外国語学校校舎)天理図書館を見学した。榎本浩之・松下政経塾研修局研修一部部長(33歳)は「今年も塾主ゆかりの地である天理を訪ねることができた。広大な神苑や、信者の方々が真剣な面持ちで回廊を拭く姿は目を見張る」と話す。また塾生の一人、伊崎大義さん(26歳)は「塾主が見聞きしたものを追体験することで、その経営理念の一端を知ることができた。『陽気ぐらし』の教えは、人のための政治を目指すうえで大切な考え方だと感じた」と語った。松下政経塾の一行は、本部神殿で参拝した後、幸之助氏が訪れたとされる管内施設を巡った(10月22日)読者のひろば同年代の布教師の姿に水橋敏郎(70歳・名古屋市)現在、清掃会社に勤務し、ビルの清掃作業や駅前の花壇の手入れを行っている。8月のある日、駅前で花に水をやっていると、路上で声を張り上げる年配の男性が目に入った。よく見ると、天理教の布教師である。額に汗をにじませて懸命に教えを説く姿に、私は思わず仕事の手を止めた。そのとき、過去の自分の姿がよみがえって、温かい気持ちで満たされた。8年前、それまで仕事中心の生活を送ってきた私は、より一層お道の御用に励むことを心定めした。以来、近所でのリーフレット配りなどを地道に続けてきたが、さまざまな理由から次第に布教から遠ざかっていったのだ。私はその布教師に声をかけ、二言三言言葉を交わした。私と歳の近い彼は、別れ際に「お互い頑張りましょう」と生き生きした表情で話し、再び路傍講演に立った。その姿に胸を打たれ、「私も頑張らなければ」と、布教への意欲が再び高まった。コロナの終息後には、布教を再開することを心定めしている。あのとき私を勇ませてくれた彼との出会いに感謝するばかりである。日本史コンシェルジュ歴女ご案内いたします白駒妃登美ShirakomaHitomi真心の絆を紡いで当時の武家社会では恋愛結婚で結ば松平頼聰と弥千徳川のご親藩・高松松平家と譜代筆頭・井伊家の縁組は、両家にとっても幕府にとっても慶事のはずでした。ところが2年後、弥千代姫の父・井伊直弼が桜田門外の変に倒れると、松平家の将来を憂える家臣たちの進言で、二人は離婚することになります。しかし苛酷な運命も、歴史を揺るがす大事件も、二人の心を引き離すことはできませんでした。二人はそれぞれ相手を思いやる強い気持ちを持ち続け、明治5(1872)年に復縁します。このとき、離縁から9年の歳月が経っていました。復縁に尽力したのは、高松松平家の本家に当たる水戸徳川家と、伊家の双方と姻戚関係にあ栖川宮熾仁親王です。妻と死別し、悲しみに暮れる熾仁親王は、「生きて、互いを思い合っている二人が、離れたままでいることはない」と、両家を呼んで調整を進め、復縁させたのです。廃藩置県以降、東京で暮らしていた頼聰は、明治24年に家族と高松を訪れます。頼聰にとって20年ぶり、千代子(弥千代姫から改名)にとっては初の高松入りでした。以来、千代子は昭和2年に88歳で亡くなるまで、高松を1回訪れています。最後の来訪は亡くなる2年前。このとき、千代子の80歳の長寿の祝いが催されました。汽車と船を乗り継ぐ長旅は、老齢の千代子に堪えたはずなのに、なぜ彼女は高松で祝うことを選んだのでしょう。明治維新の際に徳川宗家に尽くした高松藩には、莫大な賠償金が課されたうえ、その後は愛媛県に組み込まれたり徳島県に編入されたりと、不安定な状況が続きました。困窮する高松の人々の心の拠り所は、旧藩主・頼聰とその妻・千代子。夫婦も彼らの思いに応え、屋島や金刀比羅宮などの観光地を宣伝し、地域医療や女子教育に力を注ぐなど、高松の発展に尽くしてきたのです。お祝いの席では、千代子が設立に関わった女子校の生徒らが、採取した蛍を美しい籠に入れ、短冊に和歌を書き添えて千代子に贈りました。千代子はたいそう喜び、少女たちに歌を返しました。あつめたるかごのほたるのひかりにも赤き心をみするおとめら赤き心とは、嘘偽りのない心、「まり真心のこと。真心の絆を幾重にも紡いできた高松の歴史は、私たちに美しく心豊かに生きる勇気を与えてくれます。