天理時報2021年10月27日号4面
特別企画信心への扉おやさまに導かれた女性文・伊橋幸江天理教校本科研究課程講師やっぱり、おつとめに出させていただいてよかった辻とめぎく幼少から教祖の膝元で親しく教えを受けたとめぎく。小柄で、気性のしっかりした、弁の立つ人だったという。晩年は、事情に迫られるたび、神様をお祀りした部屋で、一人静かに「おふで「さき」を拝読していたと伝えられる世界中には、争いごとが絶えません。親神様は教祖をとおして、人間の心を澄まし、陽気ぐらしへ導く道として、慶応2年から明治15年にかけて「たすけづとめ」を教えられました。このおつとめの味わいを、教祖のお側で、幼いころからおつとめの鳴物を教えていただかれた先人の姿にもとめたいとおもいます。琴を習いや辻とめぎく(明治3・1870年~明治4・1910年)という先人は、辻忠作の三女として、大和国豊田村(現在の天理市豊田町)に誕生しました。教祖は、生まれる前から、こんど生まれたら名は「とめぎく」やで、とおっしゃったそうです。父の忠作は、文久3(1863)年から信心をはじめた生え抜きの道の先人です。正直者で、豊田村から教祖のもとへ、いつも通われました。とめぎくは8歳(明治10年)のときから毎日、教祖のもとへ寄せてもらって、裁縫を習い、のちには、おつとめの鳴物の琴を教えていただきました。ときどき通わずにいると、かならず身体のぐあいがわるくなり、おやしきへうかがうと、きまってご守護をいただくのでした。その明治10年、忠作は右肘がたいへん痛むので教祖にお伺いすると、教祖は、「琴を習いや」とおっしゃったので、とめぎくに、郡山で稽古琴を買いもとめました。こうして、とめぎく(8歳)は琴、飯降よしゑ(22歳)は三味線、上田ナライト(15歳)は胡弓と、おつとめの人衆として、それぞれに手をとって、教祖から鳴物を教えていただきました。『稿本天理教教祖伝』に、「とめぎく」の名は5回みられます。それらは教祖が、おつとめを整えられる段取りと、ぴったりかさなっています。明治8年6月2日(陰暦5月26日)、かんろだいのぢばが初めて明かされました。その「ぢば定め」において、6歳のとめぎくは、掃き清められた庭を、目隠しをした母ますに背負われて歩きました。ますは、初めのときは立ちどまりませんでしたが、子どものとめぎくを背負って歩くと、皆とおなじ場所で足が地面に吸いついて動かなくなりました。明治10年、教祖から、おつとめの鳴物の琴を教えていただき、5年後の明治15年10月の毎日のおつとめでは、琴をつとめています。そして明治16年8月の雨乞づとめにも、赤い着物で出ています。明治20年正月26日のおつとめにも鳴物をつとめたと、増野日記にあります。翌日に撮影された集合写真の前列中央には、当時18歳のとめぎくの姿があるのです。にちにちの、ひのきしん明治13年秋のころ、はじめて三曲をふくむ鳴物をそろえての「よふきづとめ」がおこなわれています。教祖は、「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう」と、警察の干渉がはげしく、ためらう人びとにたいして、「心の調子」を合わせておつとめをすることを急がれました。おつとめをとおして、元初まりの真実と親神様のご守護が教えられます。父の忠作は、おつとめの地歌と手ぶりを、教祖から最初に教えていただかれた先人のひとりです。教祖直伝の神の話をたくさん伝承していますが、その話は、諸井政一『正文遺韻』(山名大教会)によって読むことができます。