天理時報2021年10月27日号5面
そのなかに、おつとめの地歌である「みかぐらうた」の、十一下り目四ッ「よくをわすれてひのきしんこれがだいゝちこえとなる」についての解説があります。「一日神様へと、つとめるだけがひのきしんやない」といわれて、暇惜よくをはなれたならば、ひまをしいと思う心をもたず、人の事でもすけて(手だすけしてやり、すたるものは、わがもの、人のものというなく、一寸すたらぬようにし、道に石でも出てあれば、人のけつまづかぬよう、脇へ寄せておく。暇惜総て万事に身をしみをせず、ひまをしいというよくの心を捨てて、気を付けるのが、これがにちにち、少々ずつの、ひのきしん。とあるのです。教えを聞きわけ欲の心をすてる。身惜しみや、時間を惜しむ心をもたず、人のことをわがこととしてすべてに心配りをする。こうして、にちにち、少しずつ、つとめさせていただく「ひのきしん」が大切といわれるのです。わがもの、人のもの、と言っているあいだは、真に教えを聞きわけたことにはならないと、毎日のくらしにおいて、教えどおりに心を澄まして生きる信心の急所が具体的に説かれています。おつとめの特徴は、声にだして「みかぐらうた」を歌うところにあります。神様のご守護と、ひのきしんという信心の妙味を、皆といっしょに、しみじみと味わいつつ感じとることができるようにという配慮がみられます。そのよろこんだ顔をとめぎくは13歳(明治15年)から出直すまでの2年間、ずっと、おつとめをつとめて通りました。教祖からも、父の忠作からも大切にされて、恵まれた娘時代をおくりました。やがて分家を立ててもらい結婚生活に入りますが、わずか6年で夫を亡くし、そのうえ、頼りであった父親を亡くします。一時は途方にくれながらも、おやしきのつとめをいただき、食べることもままならないドン底生活のなか、幼い息子と娘を育てました。明治45年、かわいがっていた娘を亡くし、その看病疲れから、みずからも風邪をこじらせ、息子をひとりのこして20日の思いで出直されるのです。息子の豊彦は、のちに本部員となり道の重責を担われますが、当時はまだ14歳でした。前半生とくらべると「気の毒な晩年であった」というようにもいわれます。けれども、どんな難儀な中でも、子どもにはつらい顔をみせずに明るく慈悲深い母であった、と伝えられているのです。お出直しの1日前の9月26日、風邪で寝ているところ、息子は、おつとめに出させてもらうことを母にすすめました。つとめをおえて帰ってきた母は、いかにもうれしそうに、「やっぱり、おつとめに出させていただいてよかった」と言われたそうです。そして、「そのよろこんだ顔を、いまもはっきりと覚えている」と、息子は、のちのちまで語り伝えています。おつとめをつとめ、にちにち、心明るくひのきしんの態度で通られた姿がうかぶのです。実家の辻家がある豊田町の風景。秋の風物詩「稲架掛け」が往時の雰囲気をいまに伝えている教祖が現身をおかくしになった翌日に撮影された写真。前列中央に写っているのが当時18歳のとめぎく。このころから、結婚して分家を立てるまで、初代真柱様のお宅で毎日御用をつとめてい忠作が、とめぎくのために買い求めた琴。長さは五尺五寸(約165センチ)。明治12年、とめぎくは飯降よしゑ、上田ナライトと共に、教祖から赤い着物を着ることをお許しいただいた。とめぎくがおつとめに用いた着物は、赤い地色に白い花模様のある、メリンス生地の袖なしだったと伝えられる