天理時報2021年10月20日号6面
天理時報創刊90年記念懸賞エッセー入選作品テーマひのきしんに生きる上田禮子88歳・本部直属浪華分教会前会長夫人・大阪市絶望的状況から立ち上がってくるもの東日本大震災は、ひのきしんを新しい視点で捉えるきっかけを作ってくれた。ひのきしんは、親神様に身体をお借りしていることへの感謝の行い、また「日の寄進」として時間のお供え”とも教えられる。阪神・淡路大震災の救援ひのきしんの際も、そんな気持ちを胸に充満させて出かけたものだった。東日本大震災発生後、私の住まう大阪教区では、毎月マイクロバスを出し、宮城県を中心に救援のひのきしん者を募った。私も被災地へ4回赴いた。しかし、なんだろう、気持ちが晴れない。一生懸命ひのきしんをしているけれども、その気持ちに違和感が生まれてきた。天理教の信仰者としての意義や意味を、ひのきしんの中に全く見いだせない。被災した方にかける言葉が虚しく、固まってしまう。無力な自分をさらし、そんな自分と向き合うことを避けようとする自分がいる。振り返ると、綺麗ごとな言葉、おざなりな言葉、安易な言葉を、どれほど使ってきたか。「言葉一つがようぼくの力」とも教えられる。言葉と祈りは宗教家の財産のようなもの。でも、いままでのそれらは嘘っぱちで、偽善者だったのではと、ひどく落ち込んが東松島市で救援作業をしていたときに、突然、ある感覚に襲われた。「この身体は、神のからだの一部を凝縮する形で貸していただいている。らば、神様から借りたこの身体を、かに、誰かに投じるというのは、本質のところで神の人類に対する思い、神の祈りの具現ではないか?この身体には、神の人類に対する祈りが刻印されている。陽気ぐらしという、人間はたすけあいをするように創ったのだという祈りが刻印されたこの身体を、何かに、誰かに投ずること、つまり、ひのきしんは言葉以上の祈りなんだ」この感覚に救われた気持ちになった。そのころ、教会本部は「この大節をわが事と受けとめて」「親神様はたすけあいを促している」とのメッセージを出し、被災された方を関係施設で受け入れるなどの活動を展開していた。わが事として受けとめて何ができるかと悩み、考えついたのが、本部の取り組みに倣い、教会の一棟を被災者に提供することだった。すると、五十数件の問い合わせがあった。その中で、福島県などから5家族1人が1週間から2カ月間、滞在した。大げさなことは何もせず、ただただ安全な場所で安心してもらうだけだった。ある滞在者から「津波被災者は遠い所に来ないと思うが、原発の被災者は、できるだけ遠い所に逃げたいというのが心情」だと言われ、これは大きな発見だった。原発の被災者は、家も財産も家族も目に見える無残な姿で失うことはないけれど、気持ちはとても不幸。故郷で復興できる津波被災者と、再び故郷に住めるかどうか分からない原発の被災者との違いだという。そんな中で、最も印象的だったのから20㌔ほどしか離れていない富岡町のご家族のことだ。年の瀬が押し迫るころ、「3月11日に無我夢中で逃げ、山形まで来た。すぐにでも大阪へ向かい、そちらで正月を過ごしたい」という連絡が入った。しかし翌日、夜になっても見えない。とうとう零時を回った。諦めかけたとき、屋根に雪を載せたワゴン車が着いた。途中の雪で大幅に遅れたという。日の晩、教会の駐車場に止められた、家族を無事に乗せてきた車を見た。車体は泥が跳ねて屋根までどろどろで、雪道を休まず走ってきた疲労感が漂っていた。ご家族を、どんな言葉で迎えたらいいか分からなかったし、無理に言葉をかけなくてもいいとは思っていた。しかし車を見たとき、思わず「本当によく来たね。よくさん家族を乗せてきてくれたね。ご苦労さん」と、車に声をかけていた。そして、車の汚れを雑巾で落とさずにはおれなかった。タイヤのホイールの中まで分厚い泥が絡まっていた。福島のナンバープレトの泥を拭ったとき、涙がとめどもなくこぼれ落ちた。丁寧に拭きながら、さまざまなことが頭の中で交錯した。自分の生きている意義、人類の生き方、地震によって引き起こされた二次災害の原発のこと、親神様のこと、信仰者として生きていること・・・・・・。いままで、ひのきしんという行為をさせていただいたことはたくさんある。しかし、私にとって一番のひのきしんは、このときの福島で被災された方の車を磨いたことに集約している。たった一回だから”日”の寄進ではないだしかし、私にとって、神に対しさんを代表として被災者の方に、生き物に、物に、さまざまな思いが巡り、かりものの世界に生きている実感が漲って、そのことを涙でもって知った、ひのきしんだったのである。幸せへの四重奏カルテット元渕舞ボロメオ弦楽四重奏団ヴィオラ奏者ニューイングランド音楽院教授練習室の外の世界この秋”家族”が二人加わった。音楽院新入生のクロエと、昨年から私の門下生で大学3年生になるクロエは、コロナ禍で仕事が減り、学費のほかに寮費までは払えないと両親から相談を受け、わが家から音楽院へ通わせることにした。アヤノはアメリカ生まれの日本人。うちの娘たちがよく懐き、部屋を探していたアヤノの同居を娘たちにせがまれたのだった。音楽院のヴィオラの門下生も1人から17人に増え、室内楽の私の担当は33人になった。そのうえ、家に帰れば毎日6人分の食事を作るから、一日中てんやわんやである。しかし、忙しければ、それだけ時間を上手に使うようになるので、以前よりもむしろ、ゆとりを持って生活しているように思う。「1日24時間しかない」と思っていたのが、「24時間もある」に変わってきた。音楽院の学生は練習室からほとんど出ないので、みんなビタミンDが足りていない。作曲家の心を読むのが音楽家の仕事なのに、音楽院の学生たちが世の中をあまり見ていない生活を送っているのを、私はこれまで見てきた。これでは将来の音楽の世界はどうなってしまうのだろう。そこで私は月に2回、ヴィオラの学生と娘たちを連れて遠足へ出かけることにした。1回目は、わが家の庭でバーベキュー。2回目はボストン郊外にある、アメリカで一番古い海洋公園。3回目はりんご狩り。練習室の外の世界は、こんなに広いんだということを体で感じてほしい。楽譜の奥に潜む人間に触れてほし、いそんな思いからだった。私の両親は、自分が感動したり驚いたりしたことがあると、真っ先に私たち3人娘に経験させてくれた。「ホタルがきれいだから今夜見に行こう」「ザリガニがたくさんいる場所を見つけたから、いまから捕まえに行こう」「郡上八幡の桜がきれいだから行こう」いま、両親の気持ちがよく分かる。そうした経験のおかげで、いまの私がいると実感している。ボストン・リビア海洋公園にて