天理時報2022年11月30日号6面
【夢の極地に旗を立てた男 – 日本史コンシェルジュ】南極には「白瀬海岸」「開南湾」という地名が存在します。日本人で初めて南極に上陸した探検隊の隊長と、彼らが乗っていた船の名が、それぞれの由来です。白瀬矗は明治維新間近の1861年、現在の秋田県にかほ市で生まれました。寺子屋でマゼランやコロンブスの話を食い入るように聞いていた矗は、自分も探検家になって極地へ行くという志を立てます。ちなみに、矗の幼名は「知教」ですが、極地探検の志を決して忘れまいとの思いから、18歳で陸軍に入隊した際に、「高く聳える」という意味の「矗」を自ら名乗るようになったのです。1909年、米国の探検家ピアリーが北極点に到達したというニュースが世界を駆け巡りました。矗はショックを受けますが、「北極点が制覇されたのなら、次は南極点だ」と目標を180度変更。国の支援を期待できない矗は、民間から寄付を募り、不足分を借金で補うと、1910年11月29日、東京の芝浦を出航しました。9人の探検隊員を含む27人が乗船した南極探検船「開南丸」は、わずか204トン。木造の漁船に鉄板を張り、エンジンを備えただけのその姿は、まるで大海原に浮かぶ木の葉のよう。途中、赤道付近の暑さで食糧が腐ったり、寄生虫が原因でそり用の犬を失ったり、一度は南極圏に突入するも、流氷とブリザードに阻まれシドニーまで引き返したりするなど、幾多の困難に見舞われながらも、出航から1年2カ月余りで南極に到達しました。矗は5人の突進隊を組織し、南極点を目指しました。想像を絶する寒気と悪天候、そして食糧不足。途中で2台のそりが離れ離れになるという不運もありましたが、雪上に残された犬の血を目印に、再び合流できました。9日目、人間も犬も限界を超えたことを感じた矗は突進を断念。1912年1月28日、彼らは南緯80度5分、西経156度37分に日章旗を立て、「大和雪原」という美しい名をつけると、基地への帰途に就いたのです。それから40余年が経った昭和30(1955)年、国際地球観測年特別委員会ブリュッセル会議で、日本の研究者たちは南極観測への参加を表明します。敗戦国の日本には、その資格はないと、各国は拒否しましたが、土壇場で日本の参加が承認されました。白瀬南極探検隊の実績があったからです。矗の人生を賭けた南極探検が、戦後日本を国際舞台に押し上げる一助となったのです。白駒妃登美, 【国体柔道優勝に貢献 – 東京の近松麻耶選手】近松麻耶選手(1列目左から2人目)は、国体柔道競技女子で東京勢の優勝に貢献した(10月9日、ユウケイ武道館で)近松麻耶選手(高校3年・濱二分教会教人、重治さんの次女)は10月9日、栃木県宇都宮市のユウケイ武道館で行われた「国民体育大会」柔道競技女子に東京都代表チームの一員として出場し、東京勢の9年ぶりの優勝に貢献した。小学2年生から柔道を始めた。柔道の強豪校・淑徳中学校在学中、めきめき頭角を現し、3年時の全国大会では個人戦5位、団体戦3位の好成績を収めた。その後、淑徳高校へ進学し、昨年10月から女子柔道部のキャプテンを任された。近松選手は「父から教えてもらった『八つのほこり』の教えを胸に、ほこりの心づかいをしないよう意識しながら部員と接してきた」と話す。その後のインターハイでは、団体戦で3位入賞した。数々の戦績が認められ、国体柔道競技女子の東京都代表選手の一人に選出。今大会に向け、体格の大きい選手に対抗するため、苦手としていた体さばきなどの練習を重ねたという。迎えた大会当日、近松選手はすべての試合に副将として出場。東京都代表は、広島県代表との初戦を3‐0、埼玉県代表との準々決勝を4‐1、滋賀県代表との準決勝を3‐1で勝利。決勝では長野県代表と対戦した。副将の近松選手は、1‐0とリードした場面で畳の上へ。体格差に苦戦するも、相手選手の技をうまくさばき、「縦四方固め」で一本勝ち。東京都代表は、続く大将戦も制し、3‐0で勝利。国体での優勝を果たした。近松選手は「高校最後の大会で全国優勝することができて、涙が出るほど嬉しい。大学では心身ともに強い選手を目指したい」と話した。, 【病院で傾聴続け – 読者のひろば】木村桂子(86歳・高松市)近所の病院で、悩む人の話を傾聴するにをいがけをコツコツと続けています。この取り組みを始めたのは10年ほど前。亡き夫の知人であるAさんの身上のおたすけに掛かったときに経験した、ある出来事がきっかけでした。当時、Aさんのたすかりを願うあまり、心を入れ替えるよう強く促していました。するとAさんの娘さんから、考え方を押しつけるようなこちらの姿勢を指摘されたのです。もっともだと思った私は、相手の話に耳を傾け、心に寄り添うことができなかったことを深く反省しました。そして、この失敗を糧に、おたすけにもっと励ませていただこうとの思いが高まりました。その後、自分にできるにをいがけを模索した末に、近所の病院での“傾聴にをいがけ”を始めたのです。「諭達第四号」が発布され、来年からいよいよ三年千日が始まります。年を取るにつれて、体が思うように動かないことも少なくありませんが、これからも命ある限り、親神様・教祖にお喜びいただけるような陽気な心で、にをいがけを続けていきたいと思います。, 【日本環境振興協会から感謝状 – 兵庫の長谷川英樹さん】観光名所の山の整備 長年努め加古川市の長谷川英樹さん(77歳・志方分教会ようぼく)は、長年にわたり加古川市と高砂市の境に位置する観光名所の高御位山の点検・整備に努めた功績が認められ、先ごろ日本環境振興協会関西支部から感謝状を贈られた。幼少のころ体が弱かった長谷川さん。高校からマラソンを始めると、トレーニングの一環として、自宅近くの高御位山に登るようになったという。こうしたなか、トレーニング中に階段の崩れた部分を補修する高齢の登山者と出会ったことがきっかけで、山道の整備を手伝うように。以来、登山者が安全に登ることができるよう、山道の点検や整備などに長く取り組んできた。また、これまでに加古川市と連携して登山マップの作成に携わったほか、登山者向けのガイドスタッフも務め、“高御位山の達人”として『神戸新聞』や市のホームページで取り上げられたことも。長谷川さんは「感謝状を頂けるとは思ってもいなかったので驚いている。元気に体を動かせることに感謝し、登山者が安心してハイキングを楽しめるよう、これからも体が動く限り、ひのきしんを続けていきたい」と語った。下記URLから、長谷川さんを取り上げた本紙の過去記事をご覧になれます。https://doyusha.jp/jiho-plus/pdf/20221130_hyosyo.pdf