天理時報オンライン

形を求めず、日々をおたすけの心で


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杉澤元和(若會分教会長・52歳 福島県会津若松市)

昨年はさまざまなことが次々起こり、私にとって慌ただしい一年でした。年が押し詰まるころには、主だった信者さんの一人が、新型コロナウイルス感染のため出直されました。

葬儀を終え、後片づけをしているとき、この原稿の執筆依頼の電話がありました。ここでいったん立ち止まって、いままでの自分の通り方を省みる時間を、教祖から頂いたように感じました。

日々、道の御用のうえに真面目につとめてきたつもりでしたが、私の姿は教祖の目にどのように映っていたのだろうかと考え、「いままでの自分の動きは行事をこなすだけのもので、形ばかりを求めていたのではないか」と、反省させていただきました。

一昨年の12月、大教会月次祭の祭典後のあいさつで、大教会長は「どんなことでもいいから、地域との交流を持っていただきたい。町内会の活動でも趣味でも何でもいいから、教外の人と交わることが大切だと思う」とお話しくださいました。

それからの私は、朝夕のおつとめの際、教祖に「よふぼくとして私にできる御用があれば、お使いください」とお願いするようになりました。

すると程なくして、ある教会長から勧められ、保護司を務めることになりました。また同じころ、教区や支部で役を頂くなど、急に忙しくなっていきました。そして、御用を頂くたびに教外の人とのつながりができ、御教えを伝える機会を頂くようになりました。

いま、忙しく務めさせてもらっている用事はすべて、私の願いに応えて教祖が用意してくださった御用だと感じます。日々を教祖のよふぼくとして働かせていただくと心を定めたときから、教祖はたくさんの御用を準備し、応援してくださっていると思えるのです。

父が会長を務めていたとき、教祖百年祭の年祭活動として始めた、朝夕のおつとめの際の十二下りてをどりまなびは、その後もずっと継続し、最近はお願いづとめとして、朝夕の十二下りを勤めています。一見、以前と同じ姿ですが、身上・事情に悩む人が真にたすかることを願って勤めさせていただいていると、以前にも増して勇み心が湧いてくるのを感じます。

形を求めて自己満足で終わってしまうことのないよう、日々をおたすけの心で通り、教祖にお喜びいただける年祭活動をつとめさせていただきたいと思います。