教祖を思う先人の真実――御休息所 – おやのぬくみ
明治15、16年は、官憲によるお屋敷への迫害干渉が最も苛烈を極めた時期であった。中山眞之亮・初代真柱様は、その手記の中で「此時分、多きときハ夜三度昼三度位巡査の出張あり」「眞之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ケ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル」と、当時の緊迫した状況を伝えている。
ところが、反対や取り締まりが激しさを増すにつれて、人々の信仰はいよいよ熱を帯び、教勢は一段と盛んになった。こうしたなか、度重ねて警察署や監獄署へ御苦労くださる教祖に、なんとか少しでもゆっくりお休みいただきたいとの思いから始まったのが、御休息所の普請である。
明治15年11月に着工した普請は、翌年5月に棟上げが行われ、同年秋に竣工。つとめ場所の北側に隣接した、3間に4間の建物であり、4畳と8畳の二間がある。
教祖は、明治16年11月25日(陰暦10月26日)の真夜中、刻限の来るのを待って、それまでお居間とされていた中南の門屋から、新築なった御休息所へお移りくだされた。信者の人々が、それぞれ講名入りの提灯をつけて庭いっぱいに待ち受けるなか、両側の提灯の光に照らされて、教祖が嫡孫・たまへの手を引きながら静々と進んでいかれると、居並ぶ人垣の間からパチパチと拍手の音が次々に響いた。
やがて、上段の間に座られた教祖は、眞之亮とたまへに「ここへおいで、ここへお坐り」と仰せられ、ご自身の左右にお据えになった。この後、信者によるごあいさつが幾度となく続き、その夜はとうとう徹夜であったという。
以後、明治20年陰暦正月二十六日に現身をおかくしになるまで、教祖はここをお居間とされた。普段は長4畳の上段の間におられ、次の8畳の間には、お付きの者や取次人が控えていた。
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教祖が現身をおかくしになった後、御休息所は「教祖殿」と呼ばれるようになる。その後、「大正ふしん」を経て、現在の教祖殿が落成したのは昭和8年のこと。建築規模は違えど、そこに通底するのは「ご存命の教祖にゆっくりお休みいただきたい」という先人たちの精いっぱいの真実であろう。