五下り目の十をめぐって – 視点
「みかぐらうた」の五下り目には十がない。むろん、二下り目の一ッ、九下り目の十もないのだが、この稿では試みとして五下り目についてふれる。
先ごろ、諸井慶一郎氏が記された次の解釈に目から鱗が落ちる思いがした。氏は五下り目について「十に当たるはずのところがなく、九下り目のとてものように合掌するわけでもない、どうでもしんじんとつけられている。これはこの一節が十のとどめに相当するものでないこと、九ッの続きであることをことさらに表しておられるのであって、十に相当する結びは、九ッの前の八ッに戻って、その時こそ、くにぐにまでへもたすけゆくのだとゆうことである」(『てをどりの道』諸井慶一郎編著)と述べられる。
五下り目は専ら、たすけについて歌われており、「八ッ やまとばかりやないほどに くに/\までへもたすけゆく 九ッ こゝはこのよのもとのぢば めづらしところがあらはれた どうでもしん/\゛するならバ かうをむすぼやないかいな」。すなわち、これまでのたすけは大和ばかりであったが、大和に珍しい所が現れたと言って国々で自発的な信仰から結んだ講に(八ッに戻って)神が出張って、その国々へとたすけゆくということである。
のちに教会設置を予言されたとされる「おさしづ」に、「一つやしきの理を治めて、それから先には皆それからそれ、だん/\と治まる。一つ名を下ろすなら、末代の印と成る」(明治21年8月9日)とある。国々に神がたすけに出向く所を設けるには、その前身となる講の人々の「心」を神が見定めたうえでとも仰せられる。
教会の将来を案じるような思案を耳にする昨今、五下り目を味わううちに、信仰には順序というものが大切と感じた。元は、教祖お一人から始まったこの道である。誰もつき来る者の無かった長の道中、その中をひたすら教祖を慕い歩まれた先人たち。「一つやしきの理を治めて、それから先には皆それからそれ、だん/\と治まる」。すべてはおやしきが元であり、ご存命の教祖に沿いきらせていただくという覚悟が、それぞれの教会の将来の姿を決める「心」ではないかと思うのである。
(橋本)