教史再彩“道のさきがけ”を今に – 教祖20年祭
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界から見えてくるものは――。
戦後不況や弾圧を耐え抜き
116年前の明治39年に執行された教祖20年祭。日露戦争(37〜38年)や東北の大飢饉などに配慮し、教内への案内はなかったが、国内各地や台湾、朝鮮半島から十数万人が帰参した。
(『みちのとも』明治39年2月号から)
「信徒の燃ゆるが如き信仰は、戦争にも屈せず、飢饉にも挫けず、勧誘をも待たず、(中略)十万という大勢を以て、潮の湧くが如く入り来れり」
明治30年代は苦難の連続であった。
日清戦争(同27〜28年)に続く日露戦争による増税や過大な戦費で日本国中が経済的困難に陥り、東京・日比谷公園の焼き打ち事件をはじめ、神戸や横浜でも暴動が起こった。38年には悪天候が重なり、岩手、宮城、福島の東北3県は平年収穫量の1〜3割という大凶作に見舞われた。
一方、教祖10年祭(29年3月)の1カ月後に発令された内務省訓令によって、各地の教会活動は激しい弾圧にさらされた。また、本部要職者の離反や異端事情の影響もあり、教勢が振るわず困窮する教会も少なくなかった。
そんな厳しい状況であったが、国内各地では熱心な布教師によるおたすけ活動が展開された。
北海道のある教会では、教会役員や主な信者が戦争に召集されて借財がかさんだが、会長は少しも心を倒すことなく、日夜、役員たちと話し合い、「今の苦しみは先の楽しみ」と勇んで布教に歩いた。
大分では、信者子弟の学校通学が差し止められたり、警察署長が先頭に立って、天理教弾圧目的の演説会を行ったりした。
大阪のある教会では、会計状況が極度にひっ迫して信者間の軋轢も重なり、解散を余儀なくされる事態に陥ったが、数人の信者の熱烈な信仰をきっかけに、信者全員が一致結束して危機を切り抜けた。
北海道のある布教師は、借家に戸も畳もなく、粗末な筵を掛け藁を寝床にして布教に励んだ。身を切るような寒さのなか、拾った小芋や魚の臓物を常食とする赤貧さながらの道中だったが、ご恩報じのお供えを欠かさなかった。
このほか、戦後不況による信者の生活困窮や、警察・寺社などからの執拗な弾圧は各地で見られた。それらを耐え抜くなか、教えに耳を傾ける人や身上鮮やかにたすかる人などが現れ、教勢は徐々に盛り返していった。
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明治30年代は、神道本局からの一派独立を進めた時期でもあり、学校設置や別席話の統一、教区制度、婦人会創設への動きなど、教団としての体制が整備された。
20年祭当日の神苑を写した写真は、着色処理を施したことで、境内の奥まで参拝者で埋まっている様子がはっきりと分かる。その一人ひとりの顔は判然としないが、神苑を埋め尽くす人々の背中から、時代を超えて引き継ぐべき教祖年祭への熱誠が伝わってくる。