おやさまは、葉っぱ一枚も粗末にしてくれるなといわはったで 永尾よしゑ – 信心への扉
文・伊橋幸江 天理教校本科研究課程講師
みずからの生きかたが問われるいま、その基本を、おやさまのお側で暮らしをともにされた先人の姿にもとめたいとおもいます。
親子もろとも伏せ込んだ
永尾よしゑ(慶応2・1866年〜昭和11・1936年)という先人は、飯降伊蔵・さと夫妻の長女として、大和国添上郡櫟本村高品(現在の天理市櫟本町)に誕生します。
伊蔵夫妻が信心をはじめて3年目にあたります。おやさまは、「親子もろとも伏せ込んだ」とおっしゃって、「よき事はよしよしというのやから、よしゑやで」と命名くださいました。
父の伊蔵(天保4・1833年〜明治40・1907年)は、元治元年(1864年)、妻の産後のわずらいをたすけていただき、この道に引き寄せられます。人がふしに出合って離れていくなか、一人かわらずおやしきへ通い、貧のどん底の道中にあるおやさまと、そのご家族を支えました。
のちには、神様によって本席と定められ、おやさまに代わって「さづけ」の理をわたし、時旬におうじる神様の刻限の指図や、身上・事情という人びとの伺いにたいして神様のお言葉を取り次がれることになります。それは、現在『おさしづ』(改修版、全7巻)として読むことができます。
こうした両親のもとで、そして、おやさまにじきじきに導かれて育ったよしゑは、勝気で気丈夫であったといわれています。父は、おやしきへ、櫟本から約4キロの道を毎日、日に何回となく通い、母も通いますから、7歳のころから、弟や妹の世話をしながらご飯炊きを覚えました。
明治10年、12歳のとき、指先がたいへん痛むのでお伺いしたところ、おやさまは「三味線を持て」といわれ、手に手をとって、「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや」
と、親しく3年間にわたって、おつとめの三味線を教えていただきました。
明治13年9月30日(陰暦8月26日)、三曲を含む鳴物をそろえての初めてのおつとめに三味線をつとめ、それからは毎月、つとめ人衆としてつとめられています。
持ち味を生かしきる
明治15年陰暦2月8日(陽暦3月26日)、おやさまのお言葉のままに、櫟本の家を引き払い、一家そろっておやしきに伏せ込まれます。
おやさまは、「これから、一つの世帯、一つの家内」とおっしゃいました。子供3人を含む5人家族が、おやしきで生活をともにするのです。そのうえ、おやさまにたいする迫害弾圧は容赦なく、きびしくなっていきます。
「ようまああんな中を通りぬけたもんやと、つく/\゛思うで」
という晩年の言葉が、その容易ではなかった道中を物語っています。そのなかを、おやさまを唯一の頼りとして通りました。
おやさまは、よしゑに、人をたすける基本を日常の暮らしのなかで具体的に諭されています。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」
あるときは、「人間の反故を、作らんようにしておくれ」「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」と、ことわけて教えてくださいました。
にちにちの暮らしにおいて、人の持ち味、衣食住という物の持ち味を生かしきることが大切であるといわれるのです。
そして、「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで」「蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで」「もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」と、「朝起き、正直、働き」という、神様のご守護の世界において誠真実の心で人をたすけるポイントをお聞かせくださっています。
よしゑは、つねに「うそとついしょうだいきらい」と人に語り、蔭日向なく裏表なく、人や物を大事にして通りました。そして「おやさんは、こうおっしゃった」「おやさんは、こうしやはった」と、おやさまの話を伝えています。
こうした、よしゑが語るおやさまの話は、わたしはこのように聞かせてもらいましたというようにして伝承され、『稿本天理教教祖伝逸話篇』にまとめられています。
じっさいに、その暮らしは質素で、孫に形見としてあたえられた綿入れの袖無し羽織は、継がみごとにあたっていたということです。
男女によらん道の台
おやさまに結婚の縁談をまとめていただいたのちは、「行くでもない、貰うでもない」というお言葉のとおり、明治21年に永尾と姓を改め、夫の楢治郎(旧姓・上田)とともにおやしきにつとめました。
夫は明治32年に亡くなり、明治40年には父である本席様が出直されます。母はすでに亡く、子ども3人をかかえての道中でしたが、おやさまの教えを胸に勇んで通りました。
おやさまから「鳴物の芯」として大事に育てられ、後年には、おやしきにおいて三曲の鳴物を大勢の人に教える指導的な立場に立たれています。
そのよしゑに、神様は「男女によらん。道の台一つから」(おさしづ明治34年3月7日)と諭されています。
どちらかというと、女よりも男がという雰囲気のあった時代に、男だけでなく女も、わたしこそは道の台という自覚をもって、おやさまひながたの道を歩む女性を育ててほしいといわれるのです。
よしゑは「女は道の台」という講演をされています。これが「女は道の台」という言葉の出典であろうといわれます。積極的に、おやさまに続こうとするその精神は、『みちのだい』という天理教婦人会の機関誌となって、こんにちに受け継がれています。
「おやさまは、葉っぱ一枚も粗末にしてくれるなといわはったで」と、人の悲しみはじぶんの悲しみ、人の喜びはじぶんの喜びとして、人や物を生かし、道の子どもをはじめ大勢の人から母と慕われた生涯でした。