社会に築いた衛生のかたち – 日本史コンシェルジュ
コロナ禍で、各国の衛生行政に注目が集まっていますが、日本で衛生行政を始めたのは長与専斎です。1838年(明治維新の30年前)に現在の長崎県大村市に生まれた専斎は、緒方洪庵やオランダ海軍医ポンペから西洋医学を学びます。二人の師は、高い技術とともに医師としての矜持を専斎に伝えました。「医術を出世や金儲けの道具に使うのはもってのほか。人は自分のためでなく、何よりも社会という公のために生きなければならない」
明治に入ると、専斎はその実力が認められ、岩倉使節団に随行し西洋諸国を視察しました。そこで彼は衝撃を受けます。ヨーロッパには予防医学や公衆衛生の概念があり、政府が住民の健康増進を図る役割を担い、責任を持って感染症対策に取り組んでいたからです。
帰国後、専斎はさっそく西洋をモデルにした諸制度を整えることに尽力します。「サニタリー」の訳語として「衛生」という言葉を考案し、初代内務省衛生局長として、医学の知識に裏打ちされた衛生政策を住民に届けるための仕組みを作りました。現在は厚生労働省があり、府県や政令指定都市では、保健所を通じて住民への衛生政策が進められていますが、こうした衛生行政の基礎を築いたのが専斎なのです。
明治時代にはコレラが流行りましたが、現在のコロナ対策で注目されている専門家会議のように、医学的な知見を政策に反映させることにも専斎は取り組んでいます。
さらに、現在は国家試験を受けて医師になることが当たり前になっていますが、この試験制度を導入したのも専斎です。それは1875(明治8)年のことでした。
それから10年後、国家資格を持った、わが国初の女性医師が誕生します。埼玉三大偉人の一人、荻野吟子です。医学校を修了した吟子が医術開業試験を受けようとしたところ、女性医師の前例がないという理由で受験を拒否されたのですが、専斎の尽力で受験が認められ、見事に合格しました。
ほかにも、専斎は北里柴三郎と福沢諭吉を引き合わせることで北里の研究を支えたり、名古屋で医師をしていた後藤新平を引き抜き自分の後継者としたりするなど、後進の育成に努めました。
その後、後藤は台湾総督府民政局長として台湾の近代化に貢献したほか、関東大震災の復興責任者も務めています。
今の私たちの暮らしがあるのは、こうしてこの国の発展に尽くしてきた無数の人々の存在があるからなんですね。混迷を深める現代社会に、感謝と希望の光を灯していきたいものです。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)