三寸五分へ – 新連載 成人へのビジョン
可児義孝
僕はもう、どこにも入学することがありません。卒業することも。息子と娘にはこれから先、いくつもの入学と卒業が控えています。ある課程を終え、次のステージへと進む。その都度、教科書も、先生も級友も、服装も建物も通学路も、すべて一新される。そこでまた新しい学びが始まる。僕には、もうそれがありません。
「布教の家」時代、亡き恩師は「われわれはいったん卒業しなきゃいけない。いまの信仰を。小学校でも7年生はないよ。新しくなるには、いったん卒業するんだ。そして初めて中学生になれる。さあ、われわれはいったい何を卒業するんだろう」と繰り返し問いかけられました。
「元の理でも、三寸まで成人すると皆、出直すでしょう。そうして、また五分五分と成人して初めて三寸五分までいける。ここにいる皆は、いったん出直して三寸五分の信仰を目指そう」
いったい何を卒業するのか、新たにどんな道に入るのか。恩師の言葉は、不思議な魅力をもって今も心にこだまします。
威張った小学7年生は困りものです。そうなれば「ねんげんたつほど、かれるばかり、くさるばかり」(諸井政一『正文遺韻抄』)でしょう。
一般に、身体や知能はある段階まで年齢とともに成長しますが、「こゝろのみち」(同書)にもたとえられる信仰は、そうではなさそうです。僕は無事に進学して新入生になれたのか、それとも小学7年生なのだろうか――。
思うに、新鮮な心持ちは“新入生”に共通する心境ではないでしょうか。実際の進学とは異なり、心の道では人物や建物に変わりはありませんが、その馴じみの人々や物事と再び出会い直すのです。見えるまま、聞こえるままの世界に変わりはなくとも、心に映る世界が変わる。世界が新たな表情を見せる。それは無形だけれど、確かに存在する“心の進路”なのでしょう。
重そうなランドセルを背負い、手を挙げ横断歩道を渡る子供の姿を見ると、僕は無性に応援したい気持ちになります。
この春、僕も三寸五分へ。
かに・よしたか
1983年生まれ。3児の父。エッセー「旅寝言」を教会ホームページで連載。早朝の読書と寝る前に子供と観るアニメが至福の時間。河西分教会長後継者