民を守る技術の結晶 – 日本史コンシェルジュ
熊本県東部の白糸台地は、棚田の景観が美しく、清らかな水と寒暖差の激しい気候によって、高品質な農作物が育つことで知られていますが、江戸時代までは深刻な水不足に悩まされてきました。周囲にいくつも河川があるのに、急流に地層が削られ、深い谷ができてしまい、その谷に阻まれて水を引くことができなかったのです。
水不足に苦しむ人々を救ったのが、この地域の惣庄屋(最上位の村役人)布田保之助です。保之助は、巨大な橋の上に水路を築き、水を渡すことを思いつきます。しかし谷があまりにも深いので、両岸をそのまま橋で結ぶことは困難でした。そこで石橋を架けられる程度まで高さを落とし、いったん橋まで降ろした水を対岸で引き上げるという、画期的な方法を考え出しました。幸い、肥後国(現在の熊本県)は当代一の技術者集団・種山石工の拠点であり、彼らの協力を得て、保之助は稀に見る難工事に挑んだのです。
なかでも、彼らが最も苦労したのは通水管です。橋の上部にサイフォンの原理を応用した3本の通水管を設けることにしましたが、木製の通水管は水圧により悉く破損。そこで大変な労力をかけて、のみで石の管を削り出しましたが、この管の連結に苦心します。溶かした鉄で隙間を埋めると、熱で石が割れて失敗。漆喰は水圧で弾き飛ばされて失敗。そしてついに、松の油が水をはじくことに目を付けた彼らは、松の葉、赤土、砂、貝の灰、塩を漆喰に混ぜることで、ようやく水を通す実験に成功しました。
さらに彼らは、重たい石の通水管が3本も入った橋を支えるため、橋脚にも工夫を凝らします。そのヒントは、熊本城の石垣にありました。「武者返し」と呼ばれる独特の石垣の組み方は、見た目に美しいだけでなく、重たい天守閣を弱い地盤で支えるために必要だったのです。
こうして彼らは、オリジナリティー溢れるアイデアと先人の叡智を融合し、長さ75.6メートル、高さ20.2メートルの日本最大級の石造りアーチ水路橋・通潤橋を建設しました。1854年(ペリー来航の翌年)の完成から現在に至るまで、通潤橋は周辺の田畑を潤し続けています。この奇跡の物語は、石工たちの高度な技術と誇り、そして何よりも保之助の民を思う心に支えられ、世紀を超えて紡がれてきたのです。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)