天理時報オンライン

底なしの親切を積み重ね


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毎田孝則(鶯谷分教会長・68歳・山口県萩市)

わが郷土の幕末の思想家であり教育者である吉田松陰は、「安政の大獄」で命を落としました。その前日に書き上げたと言われる『留魂録』の中で松陰は、人の一生を「春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス」と、「四時」と捉えて記しています。私はこの「四時」の考え方に共感する一人です。

平成9年、前会長である父が出直し、後を継いで4代会長となりました。信仰も4代目です。教会の歩み、信仰の流れから思案し、私は「四時」で言えば冬の時を歩んでいると勝手に悟っています。自分なりに懸命につとめさせていただくなか、教祖百四十年祭を迎える三年千日となりました。地域においては、町内会長を務めて12年、民生・児童委員は6期目を迎え、16年目となりました。最近、保護司の委嘱も受けました。これらの活動は地域社会への恩返しであるとともに、何事も神様の御用、伏せ込みであると受けとめ、そこに最も重きを置いてつとめています。

民生・児童委員としては、週に2回の独居老人宅三十数軒の見守りのほか、平日、教会にいるときは、朝の通学時間帯に交通立哨をさせてもらっています。子供たちの元気なあいさつの声に、私自身が元気を頂いています。

町内会長としては、行政とのやりとりや河川の草刈りなどを、地域におけるひのきしん活動との思いでつとめさせてもらっています。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』一七「天然自然」の中に、教祖は「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や」と、慶応2、3年ごろ、いつもお話しになっていたとあります。私は「四時」のうえから冬の時を歩んでいると述べましたが、冬には、その時にやらなくてはならないことがあるように思います。荒田起こし、寒肥の施し、果樹の枝の剪定などは、春を迎えるための伏せ込みの作業のように思います。教祖のひながたを求めて、心低く、小さなことをこつこつと積み上げていく道を歩ませていただきたいと思っています。

教祖百四十年祭に向けては、底なしの親切をどれだけ積み重ねられるかに主眼を置いてつとめています。あの明石海峡大橋を支えるケーブルは、ペンチで切れるほど細いワイヤーを太い束にしたものだといいます。小さなことの積み重ねの大切さを物語る話だと思います。体の続く限り、生涯伏せ込みとの思いで、自分にできることをし続けていきたいと念じている次第です。