そこに、神様 – 成人へのビジョン3
正しいことでも、人に言われたら腹が立つこと、納得できないことがあります。頭では分かっていても、「あんたに言われたくない!」となってしまう。「何を言うかではなく誰が言うかが大事」とは、多くの人が実感をもって頷く箴言ではないでしょうか。
教会では毎朝「おふでさき」を拝読します。
このさきわどのよなみちがあるとても
(十三号108)
人をうらみなハがみうらみや
今朝の一首です。「おふでさき」は神言。「誰が言うか」の、誰に当たるのは神様です。でも僕が引用し、妻に「人を恨むのをやめて自分を反省したら」と言えば、きっと寂しい思いをさせます。引用した夫を見るからです。
毎朝の拝読にはそれがありません。「今朝はこの一首」と狙ったわけではない。それは一つの巡り合わせ、偶然です。そこに人は「このお歌は、いまの私に向けられたものだ」というある種の意味を必然として見いだすのです。人は人為を超えたものや、意味のある偶然に、神を見るのかもしれません。
ある先生にお会いしたとき、先生は「人と人との間には神がいる」と話されました。目の前の人との間に神がおられる。相手が話を聞いてくれないのは、相手ではなく、間にいる神様が働いてくださらないからだ、と。
たとえば、かんろだいを拝するとき、かんろだいを挟んで反対側の礼拝場に嫌いな人がいたとして、その人の悪口を言うでしょうか。僕は言えません。
それよりも、「神様が見せてくださっている」と、その意味を求めます。そのとき、私が神様を引用するのではなく、神様がその人を通して私に働きかけておられるのです。
私には何が人の計らいで、何が神の思召か、その区別がつきません。しかし偶然を必然と受けとめる力、与えられた生に意味を見いだす心、それは“信仰の果実”だと思うのです。
神様は伝えようとしておられる。その声なき声は、ひたすら耳を澄ますこと、すなわち心を澄ます努力によって感応されるのです。
文:可児義孝