大節を意義あらしめるよう――関東大震災 – 教史再彩
99年前の大正12(1923)年9月1日に起きた関東地震。直後に発行された『みちのとも』の巻頭言には、関東大震災の惨状が次のように記されている。
「地球の一度竦動するや、文華の美を謳い人文の華を誇った帝都大東京を首めとして関東地方一円は、瞬時にして崩壊し、炎焔四方より起って忽ちにして地を覆い、見る/\焦土と化し、五十年来文化の巷は、一朝にして烏有に帰してしまった」
『みちのとも』大正12年9月20日号から
大正12年9月1日午前11時58分に発生した関東地震(マグニチュード7.9)は、揺れによる家屋倒壊や大規模火災、津波、土砂災害など、さまざまな被害をもたらした。
死者・行方不明者数は約10万5,000人。阪神・淡路大震災の6,437人、東日本大震災の1万8,423人と比べても、いかに甚大な人的被害に見舞われたかが分かる。
また、住家は全半壊が約21万1,000棟、焼失が約21万2,000棟(全半壊後の焼失を含む)。東京教務支庁管内では、全半焼もしくは全半壊の被害に遭った教会が二百数十カ所に上った。
◇
地震の第一報がおぢばに届いたのは、9月2日朝の新聞号外だった。テレビはもとより、ラジオも普及していない時代である。
急遽、臨時の本部員会議が開かれ、慰問使の派遣を決定し、午後には早くも出発した。
翌3日、中山正善・二代真柱様を本部長とする臨時震災救済本部が設置。その出張所は東京教務支庁内に置かれた。また「諭達第十四号」を発布し、教内に広く義援金を呼びかけるとともに、全力を挙げて救援活動に取り組む旨が発表された。
以後、近隣県の教会や宣教所などから多くの義援金や救援物資が寄せられた。
写真は、そのうちの一つ。五街道の中山道を通って埼玉から東京方面へ救援物資を運ぶ途中、武州銀行熊谷支店前で撮影されたものである。
◇
地震の約2カ月後の11月13日、東京教務支庁に罹災した教信者が集まり、「震災後における教徒の覚悟」と題した講演が行われた。
その中で、松村吉太郎・本部員は「希望は過去にあらずして、将来にある」として、過去にとらわれず一日も早く前途に希望を見いだすよう、節に臨む心構えを諭した。
また、その希望を実現するには、心に力をつける必要があるとして、この災害を機に各自の心を練磨するために、教祖50年の道すがらを心に置いて精進することを求めた。
そして最後に「此の大節を意義あらしむる様に、お活動下さることを冀う」と、丁寧な言葉で話を締めくくった。