困難を「手入れ」と受けとめ – 視点
このところの新型コロナウイルス新規感染者の減少から、政府は6月1日から海外への水際対策を大幅に緩和。以降、段階的に訪日外国人観光客の受け入れを始めた。
国内でも、感染防止対策としての行動制限が徐々に緩和され、社会が活気を取り戻しつつあることは大変ありがたい。近い将来、終息へ向かう兆しに違いないと期待するのは筆者だけではないだろう。
しかし、たとえ状況がさらに良くなったとしても、親神様が「おふでさき」の中で感染症のコレラについて「みのうちにとのよな事をしたとても やまいでわない月日ていりや」(十四号21)とお示しくださるように、この2年以上にわたる新型コロナによる困難を、親神様の「手入れ」と受けとめ、銘々が心の立て替えを図らなければ、真に思召にお応えしたことにはならないと考える。
そこで、お道を信仰する者の心の置きどころについて、お言葉を手がかりに思案してみたい。
「おさしづ」に「身の内自由成る成らんは、痛み悩み無くば分かろうまい。又一つかりものという。身の内かりものなら、何か一切かりもの。身の内めん/\思うようにならん。自由ならんが、これかりもの。この理分からねば、何ぼ働いても理は無きもの。この理をしっかり聞き分けるなら、それ自由とも言う。これ一つ諭し置く」(明治32年6月1日)と、お示しいただく。
これは、ある若者が右足の股の出来物について伺ったことに対する「おさしづ」であるが、親神様は、身体の痛みや悩みを通して不自由を味わわなければ、身体の一切が借り物であることが分からないだろうと諭したうえで、身の内が自分の思い通りにはならないという理をしっかり聞き分けて暮らすことを求めておられる。
新型コロナウイルスで経験したさまざまな困難を台に、親神様のご守護の理をより深く味わい、かしもの・かりものの理をしっかりと胸に刻んで、本格的な活動再開に臨みたい。
(諸井)