食・七変化 – 世相の奥
2024・6/26号を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。
海外できみょうな日本料理を見かけ、あきれたことがある。こんなものは、もう和食じゃない。下手物だ。たとえば、トウフでチャーハンをつつむ「イナリズシ」などを食べて、そう思う。
おりめただしい日本食を、ちゃんとあちらにもつたえるべきだ。このまま、放置しておけば、とんでもない料理がまかりとおることになってしまう。そんな声も、よく耳にする。京都の調理人たちには、海外むけの啓発活動へのりだす者もいる。たとえば、出し汁の正しいとされるpH濃度などを、つたえたりして。
しかし、私はこういう対応になじめない。私たちじしんの食生活をかえりみた時に、抵抗を感じる。
たとえば、スパゲティを想いおこしてほしい。日本人は、しばしばタラコのスパゲティをこしらえ、食べてきた。海苔と卵のノリタマスパゲティも、われわれの食卓にはよくでる。あるいは、野沢菜のスパゲティも。けっこう、好き勝手に加工してきたのである。
考えてほしい。あんなスパゲティが、本場のイタリアにあるだろうか。そして、イタリアのシェフは日本型のスパゲティを、とがめてこなかった。見すごしている。日本側も、あちら流に変形された疑似和食への言いがかりは、ひかえよう。海外の料理を日本化しつづけてきた日本の料理界に、文句を言う権利はない。
先日、イタリアがえりの人から、納得できない話を聞かされた。いわく、ミラノに寿司の店があったという。こっけいな品は、あまりおいていない。だが、板前に日本人はひとりもいなかった。みな、外国人である。あれでは、きちんとした寿司ができない。そう言われ、私は違和感をいだいた。
日本にも、イタリア料理店はたくさんある。本格イタリアンを標榜するところも、少なくない。そして、そういう店でも、たいていシェフは日本人である。だが、イタリア人じゃないからだめだと言う人は、まずいない。日本人のこしらえる本場の味もありうると、思われている。あちらの寿司をとやかくは言えない。
と、そう反論はしなかった。だが、だまっていると鬱憤もたまってくる。申しわけないが、そのぶんを、ここへ書かせていただいたしだいである。
井上章一・国際日本文化研究センター所長