第16話 未来へ運ぶ容れ物 – ふたり
カンは夜明け前の海に出かける。波乗りをはじめたころからの習慣だ。いい波は、朝の早い時間帯に立つことが多い。
暗い岸辺には、たくさんの灯がきらめいている。そのなかに自分を迎え入れてくれるものは一つもない。そう思っていた。あのころカンは波の上で一人、孤独と闘っていたのかもしれない。いつか打ち負かしてやろうと思いながら。
だが打ち負かすか打ち負かされるかは、本人にもわからなかったはずだ。ときに海は荒々しく凶暴で、命にたいして牙を剥いてくる。自然はけっしてやさしいものでも親切なものでもない。
ある朝のことだ。前方から大きな波がやって来た。カンは両手で水を掻いて波に向かっていった。タイミングをとらえて立ち上がった。ボードは波の上を走りはじめた。岸に近づくにつれて、波はどんどん大きくなっていく。不意にサーフボードは馬がいななくように立ち上がった。あの子は海に落ち、馬は波の上を走りつづけた。
そのときだ、カンが声を出して笑ったのは。朝の光を浴びて、水のなかで長いあいだ笑い続けていた。不思議な光景だった。なぜあんなに笑ったのかわからない。ボードから落ちたときに、自分が解き放される気がしたのだろうか。そして何かつかんだのだろうか。
「世界が目を覚ます前に、海を独り占めするんだ」
トトはよくそんなことを言って、早朝の波乗りに出かけた。カンが夜明け前の海にやって来るのも、海を独り占めするためかもしれない。彼だけの海でトトを感じるためかもしれない。世界が目を覚ます前の海で、いまも二人は波をつかまえようとしている。
「トトと暮らした12年間は、長かったようでもあるし、短かったようでもある。一瞬のことにも、永遠のようにも思える」
ハハにとって思い出とは、トトを未来へ運ぶ容れ物みたいなものだ。記憶にはいろんなものが入っている。その多くは人に伝えることができない。心の奥にしまわれた器のなかで、大切な人は生きつづける。だからどんなに深い悲しみも、少しずつ音色を変えていく。ゆっくりと、まるで小さな種子から芽が出て、大きな樹木に育っていくように。
ハハはたくさんの思い出とともに、トトを現在へ連れてきた。それは本人にとっては、生きることがかなわなかった未来だ。人間にとって死とは、愛する人によって思い出される未来なのかもしれない。カンもハハと同じように、トトを未来へ運びつづけている。