退職後の人生の指針を得る – 修養科の四季
第970期 森 武さん 71歳・広島県福山市・廣沼分教会所属
未信仰だった私が、天理教を信仰するようになったのは妻との結婚がきっかけだった。
妻の家族は、皆揃って熱心な信仰者。一方の私は、宗教にほとんど関心がなかった。妻に誘われ、教会へ参拝するようになったが、あくまで人付き合いの一環だった。その後も会長さんに勧められて、月次祭で雅楽や鳴物を務めてはいたものの、自ら教えを求めようとはしなかった。
しかし、年を重ねるにつれて、長年、教会へ通っていながらお道の教えをほとんど知らないことが心に引っかかるように。いつか修養科で教えを学びたいという思いが強くなった。仕事の都合がつかないまま日が経ってしまったが、退職を機に修養科を志願した。
30年前のほこりの心づかいを自覚し
初めての親里での生活は新鮮そのものだった。困っている人がいれば、周囲の人が即座に手を差し伸べる。ひのきしんの時間には、年齢にかかわらず皆が一手一つに生き生きと作業に勤しむ。そうやって教えを素直に実践して、たすけ合う姿は非常に清々しく、お道の人々の優しさが感じられる素晴らしいものだった。
そんな人たちに囲まれて過ごすうちに、私の心にも少しずつお道の教えが染み込んでいった。そしてあるとき、ふと昔の出来事が頭に浮かんだ。
40歳のころ、原因不明の顔面麻痺を患った。医師からは「治療に半年から1年はかかる」と言われた。日常生活にも支障が生じ、なかでも困ったのが、所属教会の月次祭の祭儀式で雅楽を演奏するときだった。龍笛を担当していたが全く音が出ない。代わりの人もいなかったので、なんとかしなければと鳴らない笛を毎日吹き続けた。
そうこうするうちに、月次祭の前夜になって突然小さく音が出た。本番ではそれなりに吹けるようになり、祭典は無事終了。気がつけば、顔面麻痺も治まっていた。
発症からわずか20日ほどでの回復に、妻は「大きなご守護を頂いたね」と喜んだ。しかし当時の私は、自らの努力で治したのだと言い張った。あれから30年。教えを学んだいま、当時を振り返ると、自分がどれほどこうまんな心づかいをしていたのかと気づかされる。親神様から頂いたありがたいご守護を、自らの心のほこりで見えなくしていたのだ。
親神様に心から感謝を申し上げるとともに、これまでの心得違いをお詫びした。そして今後は、これまで頂いてきた数々のご恩に報じる通り方をしようと心に定めた。退職後の人生をどう歩もうかと思いを巡らせていたが、修養科を志願して、私よりも年上の方々が、体が不自由な中も勇んでひのきしんやおたすけに取り組んでおられる姿を目の当たりにした。私も体が動く限り、親神様・教祖に喜んでもらえるよう、ひのきしんやおたすけに努めたいと思う。
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修養科を了え、教会の朝夕のおつとめに日参させていただくようになった。日中は、ひのきしんとして、地域の草刈りなどのボランティア活動に積極的に参加している。やろうと思えば、ようぼくの仕事はいくらでもある。親神様のご守護に感謝し、世のため人のために尽くす活動を続けていきたい。