命どぅ宝 – 日本史コンシェルジュ
1945年1月末日、神戸出身の島田叡が沖縄県知事に任命され、着任しました。今は選挙で知事が選ばれますが、当時は内務省のキャリア官僚が任命されたのです。
前年10月から、沖縄は米軍の空襲に晒されていました。打診を受けた際に彼は断ることもできましたが、「俺は死にたくないから誰かが行ってくれ、とは言えん」と即座に引き受けたそうです。
島田知事は着任早々、県民の本土疎開や、人口の集中する沖縄本島南部から北部への避難を促しました。その結果、約20万人(当時の沖縄県の人口の約3分の1)が命を救われたといわれています。
さらに2月下旬、制海・制空権を米軍に握られるなか、彼は命の危険を冒し、日本の統治下にあった台湾へ渡りました。交渉の末に確保した3,000石(約450トン)の米は、翌3月に那覇に到着。食糧難が深刻化していたこの時期、沖縄の人々はどれほど勇気づけられたことでしょう。
こうした激務の合間を縫って、知事は県民と語り合う時間を大切にし、時にはお酒を酌み交わし、歌い踊りました。おそらく彼は、勝利を信じて国に尽くす沖縄県民がいじらしく、米軍の上陸前に少しでも楽しい思いをさせてやりたかったのでしょう。
知事の慈しみの心にふれた県民は、信頼と敬愛の念を深め、職員たちも「この人となら運命を共にできる」と、職務に一層励むようになりました。
しかし無情にも戦況は悪化の一途を辿り、美しい南の島に「鉄の暴風」が吹き荒れます。4月1日、米軍が本島中部に上陸。5月31日には首里城が陥落しますが、日本軍は南部へ撤退し、戦いを継続しました。折しも沖縄は梅雨の時季、逃げ惑う人々を豪雨が一段と苦しめます。極限状態が続くなか、散乱する遺体を見ても、誰も何も感じなくなっていました。それでも知事は優しさを失わず、遺体の前で祈りを捧げ、特に子供の遺体には心を込めて合掌したそうです。
6月9日、知事は遂に県および警察組織の解散を宣言。「君たちは何としても生きろ。命を永らえ、沖縄の再建に尽くしてほしい」と部下たちに思いを託し、軍司令部のある摩文仁の壕へと向かいました。6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終結。島田知事は摩文仁の丘のどこかで自決したと考えられています。
今年は、沖縄の本土復帰50年の節目の年。これほど沖縄を愛した人がいたことを胸に刻み、語り継いでいきたいですね。「命どぅ宝(命こそ尊い一番大事な宝である)」という沖縄の祈りと共に――。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)