お供えの本来の意味を知る – 視点
先月、安倍晋三元首相が銃撃により出直すという痛ましい事件が起きた。長く国民のために尽くした元首相に哀悼の意を捧げるとともに、あらためて、生命を奪う暴挙の根絶に社会を挙げて取り組むべきで、一れつきょうだいが互いにたすけ合う教理を持つ本教の者も、教えに沿って一端を担う決意を新たにしたい。
ところで、この事件の背景には、容疑者の母親による世界平和統一家庭連合への多額の献金問題があると報じられている。この点は、本教信者にとってもデリケートな問題なので、相違点を指摘しておきたい。
まず、この教団は名称こそ2015年に変更しているが、一般には旧統一教会と呼ばれ、かつて1960年代から、マインドコントロールという悪質な心理操作技術を用い、霊感商法など著しく倫理に反する事件を起こして社会問題化し、本教の者も被害に遭った。
この件に関しては、『あらきとうりよう』第172号に詳しいが、その実体は今も変わらないといわれ、これと本教の信仰活動が同一視されることがあるならば、迷惑千万な話である。
本教でも、親神様・教祖に金銭などをお供えするが、それはあくまでも健全な精神状態での自発的な意志でなされるものである。そもそも人間は皆、親神様のお働きのおかげで生かされている。その事実と有り難さは、教えを聞き分けることで納得できてくる。さらに、親神様のお働きにより病気や苦しみから救われたと自覚できたとき、おのずと感謝の念が湧き、何らかの方法で報恩の意志を表そうとする。それを行動に表すとき、参拝、ひのきしん、ひいてはにをいがけ・おたすけとなり、形で表せば物や金銭を供えることになる。あるいは、救済を願うために、こうしたことをする場合もあるが、親神様は、その行動や物に込めた真実を必ずお受け取りになり、さらなるご守護を下さる。
また、こうして捧げられた行為や金銭などは、人々を陽気ぐらしへとたすけ導く本教の活動に生かされていく。
今回の事件は、道の者にとって、お供えの本来の意味を再確認し、人にも懇切丁寧に説明できるように示された節とも感じる。
(松村義)