「働く」ということ – 視点
2025・2/26号を見る
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近年話題になった書物の一つに、デヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ』がある。それによると、いまの世の中には、実際には全く無意味で、不必要であるばかりでなく、社会にとって有害な仕事でありながら、そうではないと取り繕って雇われていると感じている人が大勢いる。彼らの中には、高い賃金を受け取りながら、精神的不調を来す人も多い。反対に、介護や看護など人のケアをする労働者は、コロナ禍のパンデミックで明らかになったように、社会にとって不可欠で極めて有益であるにもかかわらず、自分の生活を維持することもままならないような苦しい状況に置かれている。
こうした状況が問題視されない理由の一つに、西洋の宗教的労働観がある。すなわち、労働は神からの罰であり、贖罪として行う苦行と見なされる。だからこそ精神的苦痛に耐えながら無意味な仕事を続ける必要があり、社会や人の役に立つ喜びを感じるような仕事は低賃金に甘んじて苦労しなければならないとされる。
本書はこうした倒錯しているように見える社会を問題提起しているわけだが、お道では働くことを、どのように教えられているだろうか。「ようぼく」には、陽気ぐらし世界建設のために立ち働くという目的がある。身近なところでは、はたはたの人を楽させるために働くのである。その際に求められるのは、ひのきしんの態度である。ひのきしんとは、親神様のご守護に対する報恩感謝の行いである。信仰のままに、感謝の心から、喜び勇んで事に当たるならば、それはことごとくひのきしんである。つまり、働くことは、苦役ではなく喜びの発露であり、借りものの体を痛めてまで、世のため、人のために尽くすことでもない。
年祭活動締めくくりの本年、どのような御用であっても、神一条の精神で、それぞれが自分に与えられた立場のつとめをしっかり果たしたい。それは、一手一つになって、自分一人では出せない力を与えていただき、自分一人では味わえない喜びも味わわせていただくことにつながるだろう。
(三濱)