「喜ばさずには……」の心で – 三年千日 教祖と私
今村 修(豊修分教会長・66歳・宇都宮市)
私は教会に生まれ育ちましたが、小中高時代に当たる昭和41年から52年までの11年間、おぢば帰りをする機会がありませんでした。
41年は教祖八十年祭の年です。そのころ、私の教会にとって大きな節が続きました。八十年祭の1年前、教会長後継者だった父が37歳で出直したのです。小学生の姉と私のほか、幼い妹弟3人の計5人が残されました。さらに八十年祭直後の3月、詰所主任であった会長(祖父)が出直したのです。まさに大節です。
後任の会長となった祖母、そして母にとって、つらい年祭活動であったかと思います。それでも、祖母と母から聞かされたことは、常におぢばへ、教祖へと心を向ける、前向きな話ばかりでした。
長男として常に留守番役だった私が11年ぶりにおぢば帰りをしたのは、天理大学の入試のときでした。神殿・教祖殿での参拝、詰所で迎えてくださった方々、そのすべてが温かく、感激しました。いま思えば、おぢばの雰囲気は「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん」という教祖のお心そのものだと感じます。
10年前に詰所主任のご命を頂いた私は、ある年の詰所会総会で、真柱様からお聞かせいただいたお話を肝に銘じています。
それは、教祖十年祭に向かう歩みの中、ご存命の教祖のお住まいがささやかなものであることを申し訳なく思った先人たちが、教祖殿の普請を願い出られた際のお話です。このときのおさしづは「地所さい拡がりたら十分。(中略)多くの子供戻るぢば無うてはどむならん」(明治28・3・10)と、親里の拡張を急き込まれるもので、それが詰所の設置につながったとのことでした。子供が親を思う以上の親心で子供を思ってくださるおさしづです。をやを慕っておぢばに帰り来る人々の受け入れに当たるうえで、心すべきことを分かりやすくお教えくださっています。
年祭活動3年目は「おぢば帰りの促進」が提唱されています。私自身、教会長として、詰所主任として、届かぬながらも一人でも多くの方におぢばにお帰りいただくとともに、「喜ばさずには一人もかえされん」を心につとめたいと思います。