命をつなぐかけがえのないもの – 綿のおはなしと木綿のこころ 第3回 水やり
2025・6/18号を見る
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江戸時代から明治時代中ごろにかけて、綿作が盛んだった奈良盆地。20年近く綿の自家栽培に取り組む筆者が、季節を追って、種蒔きから収穫・加工に至るまでの各工程を紹介する。
5月3日に種を蒔いた綿は、ちょうどひと月を経て15センチ前後まで成長しました。実はこの間に、2回に分けて補植をしました。補植とは、3点蒔きをしたものの、一つも苗が残っていない植え穴に、予備として別の容器で栽培した苗を植えていく作業です。その数は650の穴のうち158にも上りました。
先に蒔いた種から発芽しなかったわけではありません。発芽初期の天敵であるネキリムシやヨトウムシの食害を受けたためです。農薬を使えば高い確率で被害を抑えられますが、今回は農薬を一切使用せずに栽培することを決めたので、どうしても必要な作業になります。
ところで、「綿の栽培には、水はそれほど必要はない」と言われます。もともと熱帯ないし亜熱帯の植物である綿は暑さと乾燥に強く、反対に低温と多湿に弱い性質を持っています。ただし、「それほど必要はない」というのは、「稲作ほどには必要ない」という意味であり、全く必要ないわけではありません。江戸時代の記録には、「稲作の4分の1ほどの水で栽培できる」と書かれています。逆に言えば、4分の1ほどの水は、やはり必要だということです。
大和国(奈良県)は、昔から水不足に悩まされてきました。おぢば周辺では布留川の流れを幾筋にも分流し、限られた水を各村で分け合っていました。溜め池が多く作られたのも同様の理由です。戦国時代以降に各地で綿の栽培が始まった際、大和国でいち早く綿作が広まったのは、稲作と綿作を同時(あるいは交互)に行うことで、限られた農業用水を有効活用するためでもあったそうです。
水は、飲料用はもちろん、農事においても命をつなぐかけがえのないものです。その水利をめぐってたびたび衝突が起こり、それを防ぐためにさまざまな工夫や取り決めがなされてきました。「番水」も、その一つです。川筋の分岐点に「番札」を立て、水を配分する順序を示しておきます。その番札が流れるような大水があったときは、一定期間に限り、その順番にかかわらず誰でも自由に取水できるという仕組みです。『稿本天理教教祖伝』第九章「御苦労」に出てくる「番破れ」とは、このことです。
布留川の水は、現在の天理市豊井浄水場近くにある「一の井」で本流と北々流に分かれ、おやさとやかた東右第4棟の近くで本流と南流に分かれます。北々流は、さらに本通り商店街に沿って流れる川(現在は暗渠)、第100母屋方面へ流れる川、本部境内地の地下を潜って西方へ流れる川などに枝分かれします。昭和の終わりごろまでは、現在の本部駐車場の北にある分水点にも番札が立っていました。
綿の栽培には、欠かせない水やりの時期があります。発芽期、成長期、そして実が膨らんで繊維が伸長する時期です。逆に梅雨の長雨と収穫期の雨は“大敵”です。必要なときに必要な分だけの水があれば十分で、やりすぎは逆効果です。綿にとって、同じ水でも水やりの水は薬になり、雨は害になるともいわれます。
水といえば、『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」に「水を飲めば水の味がする」という教祖のお言葉があります。このお言葉は水を通じて、飲みたいと思ったときに飲みたい水がそこにあること、必要なときに必要な分の水があること、いまここに命を頂いていること、奇跡ともいえる一瞬の不思議にあらためて心を向けることの大切さを、お教えくだされているような気がしてなりません。
梅田正之・天理教校本科研究課程講師