一本の草抜きの中にも – 視点
親里では最近、朝夕のおつとめ前後や昼休み、勤務後などの時間を見つけ、神苑や境内地で草抜きのひのきしんに勤しんでいる方の姿をよく目にする。真実の姿に頭の下がる思いがする。
草抜きについて思い出すのは、中山正善・二代真柱様の逸話である。
二代真柱様は、多忙な教務の寸暇を惜しんで草抜きに励まれた。特にチドメグサやクローバーなど、芝生の中に生える草を抜かれたという。
草抜きは、夜になって電気の灯をともしつつ行われたこともあれば、教祖誕生祭当日の午後に行われることもあった。梅雨の時期に蓑を着てなされることもあった。
そして、草抜きをされる際には、お屋敷の若者にも声をかけ、共になされた。いまでも年配の方の中には、そのときの思い出話をされることがある。草抜きという身近な事柄を通して、物事の観方や心の治め方、日々の通り方のポイントを教えられたのである。
その中で、戦後すぐのころ、本部青年らに対して次のようにお仕込みくださった。
「今日の本部の境内を見て常に淋しく思ふことは、諸君は足蹴にして歩いてゐる一本や二本の草は、心あれば簡単な気持で引ける筈であるのに、依然生茂つてゐることであります」
「雛型は路傍の一草に於ても存じて居り」
「自ら叩き、自ら求むる所に、(中略)自然と信仰のよろこびを與へていたゞける」
お屋敷に生える草を、わが事と思って求めて抜かせていただく。そこに信仰の喜びをお与えいただく。草を抜く姿の中にも、ひながたがあると言われたのである。
喜びを求めることが信仰の根底であると繰り返しお諭しになった、二代真柱様らしいお言葉である。
「一本の草引きにも信ずる者の楽しさを味ひ、禁じ得ないよろこびの外に溢るゝところ、自から匂ひがけとなり」とも言われる。
自ら求めて、喜び心いっぱいに、ひのきしんに励ませていただきたい。
(山澤)