教えと医療の狭間で苦悩“看護ようぼく”の使命知る – 修養科の四季
2025・10/22号を見る
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第1000期 石﨑あゆりさん
26歳・千葉市・日光大教会所属
大教会役員の子弟として生まれ、幼いころからお道の雰囲気の中で育ちました。天理教校学園高校(当時)を卒業後、看護師を志して埼玉県内の看護学校へ進学しました。
看護学校では、人の身体の仕組みや生命の働きを学び、「これこそ親神様のご守護だ」と感じました。しかし、学びを深めていくにつれて、次第に病気にか 罹かる原因や治療法の仕組みなどを科学的に理解するようになると、「ご守護とは何か」「教えとは何か」と迷いを抱くようになりました。
卒業後、看護師として地元の病院に就職してからは、手術や投薬などの治療で病気が快方へ向かう患者の方々を目にするたび、「薬で治るなら、信仰とはなんだろう」と疑問を感じるように。教えと医療の狭間で思い悩むなか、だんだんと信仰から距離を置くようになり、気づけば気持ちが沈む毎日を過ごしていました。
昨年6月末、転職を決意して退職。そうしたなか、父から修養科を勧められ、3カ月間悩んだ末に「自分の心と向き合おう」と決意し、昨年10月、修養科を志願しました。
教理が心に治まり
憂鬱な気持ちのまま修養生活がスタート。始めのうちは「とりあえず3カ月をこなそう」という、後ろ向きな考えで過ごしていました。しかし、クラスメートと関わるうちに、ねりあいなどを通じて、それまでの自分の行動を振り返る機会が増えていきました。
看護師として働いていたころを思い返すと、信仰から心が遠のいていたにもかかわらず、仕事や人間関係で行き詰まるたび、いつも大教会の神殿に足を運んでいました。そして涙ながらに心の内を打ち明けると、自宅に戻るころには不思議と心が軽くなったのです。
「あのとき、教祖がそっと頭を撫でてくださっていたのだとしたら」。そう思うと、いつもそばでお見守りくださる教祖の深い親心が感じられ、うれしい気持ちで胸がいっぱいになりました。そして、これこそが信仰の有り難さなのだと実感しました。
以後、どんなことにも感謝の心を持って、ひのきしんや教理勉強に取り組もうと決意し、少しずつ信仰と向き合えるようになりました。
その中で、教典の授業で「かしもの・かりもの」の教えとともに、医者や薬にまつわる「おさしづ」について学び、信仰と医療を相反するものと捉えていた自分の誤りに気づくことができました。
「しゆりやこゑにいしやくすりを」(おふでさき九号11)とお教えいただくように、薬が効くことも、病が癒えることも、すべては親神様のご守護であり、当然のように知っていると思っていた教えが授業を通じて初めて心に治まりました。すると、親神様の大いなるお働きに感謝の思いを抱くとともに、人の苦しみに寄り添い、たすかりを願うことこそ、いまの自分にできる信仰実践だと感じました。
修養科の3カ月間を通じて心が晴れ、信仰者として新たな一歩を踏み出すことができました。これからは、親神様からお借なんりしている身体を存分に使って難渋に苦しむ人のおたすけに誠真実を尽くし、自身のこれまでの歩みを話の台にして、教祖の親心を伝えていこうと、心を新たにしました。
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8月から、千葉県内の病院で看護師として勤めています。職場では、身の周りで起きた出来事から親神様の思召を思案し、教えを拠り所に患者の方々と向き合う毎日です。これからも、修養科の3カ月間で培ったおたすけの心を胸に、看護ようぼくとしての使命を果たしていきたいと思います。