立教188年秋季大祭 真柱様あいさつ(要旨)
2025・11/5号を見る
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教祖の年祭は仕切りの節
最後まで勇んでつとめよう
秋の大祭を勤める意義の一つは、立教の元一日に思いを致すことである。親神様は陽気ぐらしを見て共に楽しみたいとの思召から、人間と世界をお創めになり、以来、長い年限を弛みない親心をもってお育てくださり、お仕込みくださるとともに、天保9年10月、約束の年限の到来を待って、元初まりの母親の魂のいんねんある教祖をやしろとして、この世の表に現れ出られ、人間宿し込みの元の屋敷でたすけ一条の道をお啓きくだされた。
ようぼくは教祖の道具衆
御心一つに溶けきって
親神様が最初のお言葉の中で、「世界一れつをたすけるために天降った」と仰せられたのは、人間は元の親の思いを知らないがゆえに陽気ぐらしとは相反する心づかいや行いを積み重ね、悩み苦しみ争っている、それをたすけ上げて、人間の本来の姿である陽気ぐらしへ導いてやりたいという思召である。そのうえから、教祖はつとめをお教えくだされた。つとめは10人のつとめ人衆が元のぢば・かんろだいを囲んで、元初まりにおける親神様のお働きを手振りに表して勤めることによって、そのお働きをいまに頂き、よろづたすけ、さらには陽気ぐらしの世への立て替えを願うのであり、たすけ一条の道の根本である。
また、1月と10月に勤める大祭について、「二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである」(おさしづ明治29年2月29日)と仰せくだされている。10月26日、立教の元一日は、世界一れつをたすけるために教祖がお付けくだされたたすけ一条の道、ひながたの道の出発点。春の大祭の元一日は、つとめをはじめ、たすけ一条の道の手だてを整えられたうえで、現身をかくして存命の理をもって世界ろくぢに踏み均しに出られた日。ともに世界一れつの子供をたすけて陽気ぐらしへ導いてやりたいという親心ゆえのことである、子供可愛いうえからのことという意味では理は一つである、と二代真柱様は繰り返しお仕込みくださった。
親神様は、陽気ぐらしをする人間を造りたいという思召のもと、道具衆を寄せて人間をお造りになった。教祖は魂のいんねんによって月日のやしろのお立場となり、陽気ぐらしの道をお説きくだされることとなった。思召通りの世の中を造り出すためには、その教祖の手足となって世界中に親神様の思いを広める者が必要である。その役目を担うのが、おさづけの理を戴いたようぼくである。
ようぼくは、陽気ぐらしへ向かう教祖の道具衆である。元初まりのときのように、教祖の御心一つに溶けきって、それぞれの立場のつとめを一手一つになってつとめさせていただくところに、世界一れつの陽気ぐらしへの足取りは確実に進んでいくのである。
つとめたらつとめただけ
ご守護は現れてくる
教祖は立教以来、いろいろなひながたをお残しくだされたが、それでも成人が鈍かった子供は、ついには教祖の定命を25年縮めてまでのお急き込みを頂かなければならなくなったのである。これが年祭を勤める元となった。
教祖の年祭は、子供可愛いゆえにお見せいただいた仕切りの節である。これを勤めさせていただく私たちは、これまでの人々もそうであったように、子供可愛いゆえに、この節をもってお仕込みくだされた親心にお応えさせていただくのが、年祭を勤める意義である。
道の子こぞって、ひながたを目標に、お教えくだされたことを実践し、一手一つになって心の成人の歩みを進めて、教祖にご安心いただき、お喜びいただきたいと願って進めてきた年祭活動も残すところ3カ月となった。三年千日の目標達成へ向けて、いまは一生懸命つとめておられることと思う。つとめたらつとめただけのご守護は現れてくる。また、いましっかり動いたことは、これから先の歩みのための種まきである。無駄になることはないのである。
昨年もこの場で同様のことを申し上げたが、力いっぱいつとめたという充実感と喜びをもって年祭を迎えることができるように、最後まで勇んでおつとめくださるように願いたい。









