お手製の振袖ににをいがけの心を拝する – おやのぬくみ
立教からおよそ10年。「貧に落ち切れ」との親神様の思召により、教祖は中山家の家財道具を施し尽くし、日々の暮らしぶりは赤貧洗うがごとしであった。その振る舞いは世間の嘲笑の的となり、一時は誰も中山家に寄りつかなくなったが、嘉永元(1848)年、教祖がお針子を取られ、長男・秀司様が寺子屋を開いたことから、お屋敷には子供や若い娘たちの華やいだ声が聞こえるようになった。
そんななか嘉永6年2月、教祖の夫・善兵衞様が66歳を一期として出直された。一家の大黒柱の出直しに、家族の悲しみはひとしお深かったが、その年、親神様のお指図により、17歳の末女こかん様は忍坂村(現在の奈良県桜井市)の又吉ほか二人を連れて、親神の御名を流すべく浪速の町へ出かけられた。
こかん様の大阪布教は、一説には秋のころともいわれる。一行は早朝に庄屋敷村を発ち、ひたすら西へ向かった。竜田村を過ぎ十三峠を越えて河内に入り、さらに進んで、道頓堀にあった宿で旅装を解いた。そして翌早朝、往き来激しい街角に立った。
「なむ天理王命、なむ天理王命」
振袖姿の乙女の若々しい声と、冴えた拍子木の音、そして初めて耳にする神名――。
物珍しげに寄り集まってくる人々の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく清々しい明るさと暖かな懐かしみを覚える者もあった。伝えられるところによると、この日、一行は天満方面、堺筋、日本橋付近を巡り、元気に拍子木を打ちながら、生き生きとした声で繰り返し天理王命の神名を唱えた。
ここに、本教の伝道史を彩る力強い第一歩が踏み出された。
◇
『稿本天理教教祖伝』には、こかん様の大阪布教の意義について、「父の出直という人生の悲しい出来事と、世界たすけの門出たるにをいがけの時旬とが、立て合うたのである」と記されている。
一家の悲しみはなお癒えず、衣食にも事欠くなか、教祖は手ずから機を織り、鮮やかな青色の地に梅の裾模様のある振袖を仕立てられた。
このご事跡に、世界たすけへの凜としたご姿勢を拝する一方で、とりわけ礼装をもって浪速の地へ遣わされたという事実は、にをいがけに臨む者の心構えを今日の私たちに示唆しているとも思われる。