「政治と宗教」を思案する – 視点
安倍元首相の銃撃事件以降、にわかに「政治と宗教」の問題が浮上した。
そもそも「政治と宗教」が“問題”として認識されるのは、「近代」以降の――つまり「西洋」型――社会に特有の現象である。今日の世界情勢では、たとえば人工妊娠中絶をめぐる米国の「宗教右派」の動向にも、この問題の一端が表れている。そこには、家族や性をめぐる価値観が多様化していく時代的趨勢の中で、“伝統的”価値観を重んじる宗教勢力が、政治の力を借りてでも自らの影響力を強めようとする姿が浮かび上がる。
一方、政治の側は、宗教に票田やマンパワーとしての役割を期待する。そこにあるのは、紛うことなき「政治と宗教」の依存関係の構図である。
だが、この問題の根はさらに深い。日本を含む「西洋」型社会では、信教の自由は、法によって保障されてこそ個人の権利として認められる。その意味で、宗教団体が政治から完全に自由になることはあり得ない。だが同時に、宗教は本来、法や政治といった人間/世界の次元を超えた理念を目指すものである。翻って私たちは、こうした緊張関係の視点から、『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」を読み直すことができるのではないだろうか。
そこには、つとめの完成のために心定めの重要性を説かれる教祖と、教会設置の必要性を痛感して苦悶される初代真柱様を中心とする先人との、緊迫感漲る言葉のやりとりがある。その中で発せられたのが、「律ありても心定めが第一やで」という、よく知られる教祖のお言葉であった。このお言葉の意味は明瞭でも、その含蓄は実に深い。ここにはまさに、近代社会が内包する政治/法(律)と、宗教/信仰(心定め)の“葛藤”が映し出されている。
その意味では、実は私たちもまた、教祖の思召を受けて思案し、談じ合った先人たちの時代と地続きの時代を生きていると言えるだろう。こうした視点に立てば、「律ありても心定めが第一やで」という教祖のお言葉も、この時代を生きる私たちの心に、新たな響きをもって届くのではないだろうか。
(島田)