親孝心を尽くし 家業に励みつつ 上原さと(上) – おたすけに生きた女性
この道は、教祖お一人から始まり、数多くの先人たちがにをいがけ・おたすけに尽くし運んだ道があって、いまを生きる私たちへとつながっています。ここでは、この道のようぼくとして「おたすけ」に生きた女性を取り上げ、その成人の歩みをたどることによって、いまを生きる私たちが教えに沿って生きていく手がかりを見つけたいと思います。
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今回紹介するのは上原さとです。さとは嘉永4(1851)年、三重県上野(現在の伊賀市)に住む父・川合清兵衛、母・婦みの4女として誕生。明治7(1874)年、のちの東大教会初代会長・上原佐助と大阪で結婚し、一男五女を授かります。夫と別れ、両親と共に笠岡へ移ってからは、義父・上原佐吉と布教を展開し、明治24年、笠岡大教会初代会長に就任します。
義理の親子の縁を結び
上野は藤堂藩の城下町で、さとの父・清兵衛は藤堂家の御用商人をしていました。当時の上野では、家風が重んじられ、子女の躾も厳格でした。年ごろになった娘たちは、「塩踏み」といって、大きな商家などに行儀作法見習いとして奉公に出されました。さとは明治3年、20歳のときに大阪・久宝寺の折井という金具問屋へ奉公に入りました。身元引受人は「備後屋佐助」(略号「備佐」)を営んでいた上原佐吉・八重夫妻でした。
さとは幼いころから神仏の信心が好きでした。奉公先の折井家にやっと授かった男の子がひきつけを起こし、重態に陥りました。折井の夫婦に「大変だけれども私の代わりに、この子のために信心をしてくれんか」と頼まれ、さとは清水観音に1週間の早朝はだし参りを決心しました。
冬の朝4時といえば、まだ闇深く、橋の上などには霜が降りています。約1時間の淋しい道のりを小田原提灯を吊して走り、「どうか私の命と坊ちゃんの命を取り替えてください」と祈りました。
7日目の満願の日、帰り道で上原佐吉にばったり遭遇します。この偶然の出会いが、佐吉とさとが義理の親子の縁を結ぶことにつながっていきます。
あらゆる神仏のおおもとに
上原佐吉は岡山県笠岡の出身で、12歳で大阪へ奉公に出て、その勤めぶりが認められて備佐を興します。やがて「江戸積みでは備佐が一番」といわれ、大阪でも指折りの畳表問屋へと成長しました。子供のなかった佐吉は、甥の佐助を養子に迎えました。
さとは、朝参りのとき佐吉に遭遇してしばらく経ってから、備佐で奉公することになりました。明治7年、さとは24歳で佐助と結婚します。明治10年ごろ佐吉は隠居し、佐助が2代目を受け継ぎました。
上原家が入信したのは、不況の影響で、備佐の経営にややかげりが見え始めたころでした。明治13年正月、佐助は行きつけの理髪店で、主人の安藤駒吉から、どんな病気も話一条でたすかるという神様の話を聞きました。そして、前日に出産したばかりの駒吉の妻が、をびやたすけのご守護を頂き、働いている姿を目の当たりにします。
佐助はさとに、この話を伝えました。さとは、最初は取り合いませんでしたが、佐助が何度も勧めるので、佐吉に相談のうえ、一度、先生の話を聞くことになりました。そのときの話は、十柱の神名のご守護の理合いと八つのほこりでした。
この話を聞いた上原家の人々は、すっかり感動しました。特に佐吉の心が動いて、「世界中の神様も仏様も皆、この十柱の神様の中にこもってあるのやなあ。そしてそれが天理王命様であれば、明日からはどう言うて拝もう」と相談すると、さとは「十柱の神様の中に天照大神様も皆こもっておられますから、これまでお祀りしてきた神様を全部一つにまとめて、お灯明をともすことにしましょう」と答えました。
このとき、これまで信心してきた神仏の配置転換が行われたものと想像します。あらゆる神仏のおおもとに親神様がおられ、さまざまな利益を、その根源でご守護くだされていることを得心したのでしょう。こうして上原家では、親神様一筋に礼拝するように改め、神一条の信心が始まります。
佐助の妹イシは数年来、心臓病に悩んでいました。上原家の人々は、一家そろって毎日祈願しました。するとイシは快方へ向かい、1カ月余りでご守護いただきました。
明治13年4月、イシは上原家で初めておぢば帰りをしました。その後も上原家の人々は、たびたびおぢばへ帰り、講社祭も月に3回勤めるなど、ますます信仰を深めていきました。明治16年、佐助は教祖から「東京々々、長崎」というお言葉と赤衣を頂戴しました(『稿本天理教教祖伝逸話篇』127「東京々々、長崎」)。
一家離散、そして大洪水
一方「備佐」の経営は悪化し、金策に奔走したり、裁判所へ再三出頭したりするなど、さとの苦難が始まります。そのような状況に置かれても、さとは、佐吉夫婦を安心させようと、暮らしの中でこまやかに心を配り、孝行を尽くしました。
しかし備佐は、とうとう破産のやむなきに至ります。佐吉は、佐助夫婦と相談を重ねた結果、上原家名義では資金の調達ができないため、佐助夫婦が離婚する形をとり、さとを川合家に復籍させました。
明治18年6月、佐吉夫婦、イシ、長女・光は笠岡へ帰り、3女・リウはさとの実家へ、4女・お勢は他家へ預けられました。さとは、大阪で再起したいとの佐吉の意向に沿って長男・鹿造と大阪に留まり、佐助は教祖のお言葉を受けて東京へ行き、碇清水(備佐の取引先の畳表業者)に勤めて、家運の挽回を図ることにしました。
この年、大阪では、6月から7月にかけて雨が降り続き、前代未聞の大洪水が発生しました。玉造・二軒茶屋に移っていた上原家でも、ほとんどの家財道具が冠水してだめになりました。
そのさなか、身重だったさとは陣痛を催しました。さとは「延ばしなりとも、早めなりとも」とのお言葉を思い起こし、天理王命の神名を唱え、「洪水が引くまで今しばらく出産を引き延ばしていただきたい」と一心に願いました。すると不思議にも、陣痛はだんだんと治まり、無事に切り抜けました。
さとは「をびや一条は、どんなご守護も下さるものや。私は『延ばしなりとも、早めなりとも』とのお言葉をはっきりと分からせていただいた」と、この時の話を後年よく語ったといいます。
イシがおたすけいただいた出来事に続いて、親神様に一心にもたれて願うところに、不思議なお働きを次々とお見せいただき、自らの身をもって、親神様のご守護をありありと実感したのでした。
こうしてさとは、親への孝心を尽くし、家業に励みつつ、この道の信仰を深めていきました。その一方で、華やかな暮らし向きは一転して傾き、一家離散、そして大洪水と、度重なる苦難の道を歩むことになっていくのです。次回は、さとがこの困難を乗り越え、おたすけに生きていく姿をご紹介したいと思います。
(つづく)
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)