海を越え命救った甘藷 – 日本史コンシェルジュ
薩摩(現在の鹿児島県)から日本中へ普及した「サツマイモ」。天候不順に強く、栄養価に優れ、保存もきくので、江戸時代から近現代に至るまで、人々を飢えから救う貴重な食糧源となりました。実は、サツマイモを中国大陸から琉球(現在の沖縄県)にもたらした人物がいるのです。
その人の名は、野國總管。總管とは、琉球王国から中国(当時の国名は明)に要人を派遣する船の事務長のこと。彼は野国村(現在の嘉手納町野国)の出身なので、「野國總管」と呼ばれるようになりました。
台風や夏の日照りで田畑が荒れ、飢えて亡くなる人が絶えなかった16世紀の琉球。貧しい農家に生まれた野國總管は、「飢饉から人々を救うため、学問を究めたい」と志を抱きます。少年の思いに胸を打たれた野国村の村長は、彼を首里城下の村の領主の元へ「御殿奉公」に出しました。御殿奉公ができれば、働きながら読み書きそろばんを覚えられ、働きによっては役人への道も開かれるのです。
やがて領主の信頼を得た野國總管は、明との貿易の拠点・久米村(現在の那覇市久米)で船の往来に重要な水先案内人の職に就きます。そこで中国語が格段に上達した彼に、大きなチャンスが巡ってきます。琉球国王から明の皇帝に使節を派遣することとなり、その船の「總管」に抜擢されたのです。
1604年11月、野國總管は明へ渡り、福州に上陸しました。琉球国王の使節が北京まで半年かけて往復する間、野國總管は福州に留まって農村部を歩き、村を豊かにする方法を探りました。「これだ! この作物こそ村を救う食材になる」。蒸かした甘藷(サツマイモ)を農夫からもらった野國總管は確信しました。その甘さは驚きに値するものでした。さらに甘藷は根が太ったもので、やせた土地でも豊かに実ることを知って確信を深めた彼は、甘藷の栽培方法や保存方法など、あらゆる情報を収集しました。
あとは甘藷を持ち帰るだけ。しかし、ここで大変な困難が待ち受けていました。明にとっても貴重な作物である甘藷は、海外への持ち出しが禁止されていたのです。この困難な事態を、野國總管は、甘藷を盆栽と見せかけることで乗り越えました。やがて琉球に根づいた甘藷は薩摩に伝わり、「サツマイモ」として全国に広がっていきました。秋の味覚・サツマイモには、先人の決死の覚悟が宿っているのです。
白駒妃登美