焦ることなく着実に一歩一歩を積み重ねる – 綿のおはなしと木綿のこころ 第9回 機織り
2026・1/28号を見る
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江戸時代から明治時代中ごろにかけて、綿作が盛んだった奈良盆地。20年近く綿の自家栽培に取り組む筆者が、季節を追って、種蒔きから収穫・加工に至るまでの各工程を紹介する。
糸車を用いて紡いだ糸は、綛上げ機と呼ばれる道具を使って輪状の束にします。綛あるいは綛糸とは、糸の保管や輸送、染色などの工程をしやすくするために、糸が絡まないように細い紐で結んだ輪状の糸束のことです。手紡ぎをした糸を綛にする工程が綛上げです。
綛糸は、草木灰で作った灰汁などで煮沸すると油分や汚れが取り除かれ、色の染まりも良くなります。これが精錬という工程です。この状態で生成りの糸として使えるようになります。
また、必要に応じて染色します。最も一般的な染色方法は藍染めです。かつてはどの村にも、主に藍染めを生業とする染め物屋である紺屋があったようです。また、紺屋に糸を持ち込む前に、綛糸の一部をきつく括っておくことで、あえて色が染まらない部分を作り、その配置で図柄を織り出す絣という技法もあります。さらに、草木染めや泥染めによって自分で糸や布を染めることもありました。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』1「玉に分銅」には、教祖が絣織りをされた様子が記されています。「糸を括って紺屋へ持って行き、染めてから織ると模様が出るのであるが、中でも最も得意とされたのは、玉に分銅、猫に小判などという手の込んだ模様ものであった、という」。また、同14「染物」は、泥染めにまつわるお話です。
生きづらさを抱えた方々の「居場所づくり」を目指して綿の栽培を始めた私は、その後、綿の魅力にどんどん引き込まれ、糸を紡いで染めるだけでは物足りなくなりました。京都府精華町の相楽木綿伝承館の機織り教室へ通い始めたのは、綿の栽培を始めて9年目の57歳のとき。できれば自分が栽培した綿から糸を紡ぎ、自ら染めて、織ってみたい。同じ織るのであれば、教祖が使っておられたと思われる機と同じタイプの大和機で織ってみたいと思ったからです。
機織りは地味な作業の連続です。まず織りたい図柄をデザインし、色糸の組み合わせを考え、設計図を作ります。その後は整経、巻き取り、綜絖通し、筬通しなどいくつもの工程を経て、ようやく機織り機に糸をかけることができます。
機織りは、杼と呼ばれる道具に緯糸を仕込み、機にかかっている経糸の間に交互に杼を通して筬で打ち込んでいきます。絣織りの場合は、経糸と緯糸の白い部分がイメージ通りの柄になるよう微調整をしながら織り進めるため、余計に時間がかかります。
機織りを習い始めて気づいたこと、痛感したことが四つあります。1.焦っても良いことは一つもない 2.間違いに気づいたら、すぐに原点(問題の発生時点)に戻る 3.ごまかしは問題の解決にはなり得ない。逆に傷口を大きくするだけ 4.何よりもビジョンが大切――ということです。機織りを通して学んだことは、そのまま自分の日々の生き方を見直すきっかけにもなりました。
「おさしづ」に「一里の道も、急いて行っては、しんどいと言わにゃならん。十里の道でも、ぼち/\行けばその日に行ける」(明治34年4月16日)とあります。決して焦ることなく、着実に一歩一歩を積み重ねることの大切さを諭されたこのお言葉は、機織りを通して学んだこととも重なり、年齢を重ねれば重ねるほど、あらためて大切にしたいと思うお言葉です。













