変異株の出現に思う – 視点
4月25日、4都府県に「緊急事態宣言」が発出されたことで厳しいゴールデンウイークとなった。前回の宣言解除から1カ月余りしか過ぎていない中で、政府が再び苦渋の決断をした背景には、感染力の強いコロナ変異株の急速な拡大がある。
新しい生活様式にも慣れ、ワクチン接種が始まったことで、先行きに希望を抱いていただけに落胆は大きい。しかし、ウイルスの変異は人の力で抑えることはできない。その意味で、この事態にも親神様の思召が込められているように感じる。
昨年、新型コロナウイルスの感染拡大が始まったころの本紙3月1日号の「視点」では、「おふでさき」における感染症に対する思召を取り上げ、事態の治まりを願うには、「人をたすける心」「よふきづくめの心」に入れ替えることが肝心と書かれている。
この記事のように、教内ではコロナの大節に対するさまざまな思案が重ねられ、お互いに思召にお応えする通り方を心がけてきた。そのうえの変異株の出現である。そこにこもる思召を考えたとき、教祖の次のお言葉が思い出される。
「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』167「人救けたら」)
このお言葉を頂いた加見兵四郎は、娘と共に失明していたところを教祖におたすけいただいた。しかし、娘の目は完治したが、どうしたことか兵四郎の目は完全にはご守護いただけなかった。そこで再び願ったところ、このお諭しを頂いたのである。その後、兵四郎は熱心におたすけに奔走するうちに、すっきりおたすけいただいた。
教祖は、身上を鮮やかにたすけていただける確かな道として、人をたすける具体的な行動を促されている。このお諭しは、いまの私たちが置かれている状況にも当てはまる気がしてならない。いま、あらためて心を定め直し、何からでも自分にできるおたすけを実行していきたい。
(諸)