いつも綺麗な心で、人様に喜んでいただくように 梅谷たね – 信仰への扉
文・伊橋幸江 天理教校本科研究課程講師
新型コロナウイルスのパンデミックという困難のただなかにあるいま、その闇を照らす灯を、教祖の「ひながた」の道を歩まれた先人の姿にみつけることができます。
奥さんは融通無碍
今回は、梅谷たね(嘉永3・1850年〜大正7・1918年)という先人を取りあげます。
たねの信心は、夫である梅谷四郎兵衞(弘化4・1847年〜大正8・1919年)の入信とともに始まります。
四郎兵衞は、相続をめぐるトラブルから、養嗣子として入った家と決別し、大阪・薩摩堀で左官業を営んでいました。その間に、長男と次男を幼くして亡くしていますが、実兄が失明するという事態に心を痛めていたおり、人づての話をとおしておぢばへ導かれます。明治14(1881)年2月のことです。
おやしきにおいて、取次の先生から神様のお話を夜通し聴き、「大いなる神の世界における我のいかに小なるか」を悟って心の眼がひらかれたといわれています。その夜はおやしきで泊めてもらい、つぎの日も神様のお話を聴き、生まれかわった人間として大阪へ帰りました。
たねは、四郎兵衞から、おやしきで聴いた神様のお話を聴き、「夫婦揃うて」信心する心を定めるのです。
四郎兵衞は、わが身わが事はいわずに、神様第一に徹しきって通られた先人です。おやしきの先生の信頼はたいへん厚く、教祖から直々に聴かれたお話を数多くこんにちに伝えています。「ようこそついてきた」という労いのお言葉とともに、本席様をとおして「息のさづけ」を戴かれた先人でもあります。
いっぽう、たねについては、夫妻のそばでつとめていた方が、「奥さんは、いつも融通無碍でした」としるしています。「融通無碍」というのは、自由自在にものを見たり考えたりして、物事がうまくいくよう柔軟に対処するさまを表すことばです。
ことばをかえると、心の器がたいへん大きかったということではないかとおもうのです。
四郎兵衞のお話に、「神は水やで。人間の心は器やがな。器しだいで神はどのようにもなるもの」とあります。人間は、神様のご守護がないというけれど、神様がご守護くださらないのではない。それを受ける人間の心の器しだい、心しだいで、神様はどのような守護も働きもされるというのです。
明治20年6月には家業を廃し、それからは、この道ひとすじに通られます。後年、四郎兵衞は「梅谷家の財産はなにもない。ただ左官の道具と質屋の通帳があるだけや」と周囲に言いのこしたといわれていますが、それほど、たいへんな苦労の道中でした。
今の難儀は末の楽しみ
たねは、教祖の、
「おたねさん、これからは食べるものも着るものも、わが身につけず、人様の身につけなされや」
というお言葉を伝えています。
明治15年に、赤んぼうであった長女を抱いておやしきに帰り、教祖にお目通りしていますが、長女の頭には膿をもったクサ(皮膚炎)が一面にできていました。教祖は、みずからお抱きになり、「かわいそうに」と、すこしずつ紙をちぎって唾で湿して頭に貼り、「おたねさん、クサはむさいものやなあ」とおっしゃったというのです。
たねは、ハッとして、
「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んでいただくようにさせていただこう」
と深く悟るところがあったといわれています。
先の「食べるものも着るものも、わが身につけず、人様の身につけなされや」という教祖のお言葉によって、「綺麗な心で、人様に喜んでいただく」という中身を具体的に読むことができます。
家業を廃してからの数年間、夫は、おやしきの御用にあって留守がちな中を、生活のうえのお金の心配から子どもや講社の世話にいたるまで、苦労してお通りになっています。
とうとう布団まで質に入れなければ日を越せないということになります。そんなあるとき、質屋の店先で布団を背負ったまま行ったり来たりしている夫をみかねて、わたしがと、その布団を背負い、ためらうことなくお金に換えたという話がのこされています。
このような苦労のただなかにあるたねにたいして、神様は、「どのような道も皆々五十年の間の道を手本にしてくれねばならんで。今の難儀は末の楽しみやで」(おさしづ明治20・陰暦5月)と心を定めて通るよう促されています。
教祖は、一れつの子どもが可愛いというお心から、50年にわたって、山坂や茨畔、崖道、火の中、水の中と譬えられる厳しい道を、ひとつひとつ通りぬけ、陽気ぐらしの「ひながた」をお示しくださいました。
この教祖の大きなお心と、「今の難儀は末の楽しみ」というお言葉をたよりに、いそがしく不自由な中を、先長く思う心で力強く通りぬけられました。
「たねは一枚上やで」
四郎兵衞は、明治20年に「息のさづけ」を戴きますが、そのよろこびを伝えるたね宛の手紙がのこされています。
明治22年、たねも「おさづけの理」を戴きたいと申し出たところ、「まだまだ」と四郎兵衞は請け合いませんでした。けれども、その後、たねは歯痛で苦しみます。神様からのご意見ではないかと心を定めて願うと、すっきりと治まりました。そこで、おやしきへ帰り、本席様にお目にかかると、
「十のものなら四郎兵衞は八分や、たねは一枚上やで」
というお言葉があり、「おさづけの理」を戴かれるのです。
後年、たねのおかげで、この道に愛想つかさず通ってこられたと語る人は多かったといいます。四郎兵衞の厳しい仕込みに腹を立てて帰ろうとする人を待ちかまえて、たねは、お茶などを入れて、「ああ言うておられるが」と、こと分けて納得のいくよう話し合ったといわれています。
たねの大きな心の内をうかがうことができるお話のひとつです。