「雨乞いづとめ」余話 – 視点
『稿本天理教教祖伝』には、明治16年8月15日(陰暦7月13日)、三島村の雨乞いづとめによるふしが記されている。実はこの日、三島村から南に12キロほど離れた倉橋出屋鋪村も、教祖から雨乞いづとめのお許しを頂いていた。
前日の14日、倉橋の心勇組講元・山田伊八郎は、大旱魃で村人が苦しむのを見かねて、お屋敷に帰り、教祖に雨乞いづとめを願い出た。教祖はお聞き届けくだされ、つとめられる方々の派遣の話も決まり、教祖から「三島の村方より雨乞いづとめの願出があるので、十五日に村方の御願い済み次第倉橋へ行ってあげよ」とのお言葉を頂いた。
ところが翌15日、三島村の雨乞いづとめが発端となり、教祖をはじめ関係した方々も警察に拘引され、科料に処せられた。これにより、倉橋での雨乞いづとめは勤めることができなくなったので、16日、そのことを伝えるために高井猶吉先生が倉橋へ出向かれた。高井先生が忍阪領を過ぎて倉橋出屋鋪領へ入られるや否や、一天俄かにかき曇って大降雨となり、先生は村の入口に近い山本与平宅に駆け込まれたが、この間、約4丁(400メートル)ほどの間にずぶ濡れになったという。突然の大雨に村人等は狂喜した。(『山田伊八郎伝』参照)
教祖の「倉橋へ行ってあげよ」とのお許しと、雨乞いづとめを勤めることができなくなったことを伝えに行かれた高井先生が倉橋に足を踏み入れただけで、大降雨をお見せくだされた不思議さを思い併せると、教祖の温かい親心とお言葉の理の尊さが、あらためて胸に迫る。
「雨降るも神、降らぬのも神、皆、神の自由である」とのお言葉を胸に、「十六年の夏は、雨乞で大そう賑わった。取締りも厳しかったが、拘引されても説諭されても科料を取られても、しかも尚、人々の信仰は一層勇み立ち、一段と元気付く一方であった」と、教祖伝には記されている。
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