第31話 トトが愛した海 – ふたり
作/片山恭一 画/リン
それは海だった。トトが何よりも愛した海が、あの子と、あの子の幸せのあいだに割り込んだ。二つのものは、世界中の海を集めたよりも広く、遠く隔てられてしまった。
トトの家は代々が医者だったから、当然のように彼も医者になった。しかし友だちに誘われて波乗りをはじめてからは、ほとんど医者とサーファーが兼業になった。
「たしかに危険は伴うけれど、車を運転するのだって危ないわけだしね」
自分が危険なことだと思っていたら、本当に危険なものになる、というのがトトの考えだった。怪我をするのは、たいてい余計な心配をしているときだ。心が波に打ち負かされるからパニックに陥り、肉体だけでなく感情も精神もバランスを失ってしまう。
「いらないことを考えずに楽しむ、それがベストだ」
トトは間違っていたのかもしれない。最初から波乗りなどと出会わないのがベストだったのではないだろうか。それは悪い出会いだった。でも波乗りと出会わなければハハとも出会わなかったわけで、そうなるとカンもわたしもここにはいなかったことになる。
何をどう考えればいいのかわからないので、とりあえず歩くことにした。なぜ見えなかったのだろう? 海が持ち上がることも、青年が車で海にダイブすることも、ツツたち一家がひどい事故に巻き込まれることも、カンには見えていた。トトのことにかぎって見えなかった。なぜだろう?
考えてわかることではないし、わかったところでどうなるものでもない。だからわたしたちは歩きつづけた。「なぜ」に追いつかれないために。
不思議なことに、トトが亡くなってから再びカンの道迷いがはじまった。また以前のように迷子になりはじめた。見覚えのあるものなど何もないという感じだった。わたしは思った。世界が変わってしまったのだ。トトがいた世界は、彼の命とともに失われてしまった。ただ一つの、かけがえのない世界が失われた。いまあの子がいるのは、まったく別の見知らぬ世界だった。
誰もが大切な誰かを失い、そのたびごとにただ一つの、かけがえのない世界を失うとすれば、人は常に未知の世界で迷子になっているしかない。きっとハハもそうだったのだろう。迷ってしまわないように、彼女は家のなかでじっとしていることにした。
「あなたが口をきいてくれたらね」。あるときカンの肩を抱いて言った。「そうしたらトトがいるような気がするかもしれない」
それ以上、ハハは何も言わなかった。震えるようなひそやかな息遣いが聞こえてきた。何があっても絶対に泣くまいと声を押し殺しているみたいだった。そんなハハは、いまにも砂の人形のように崩れてしまいそうだった。
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