「失われたものを数えるな」- 視点
東京2020パラリンピックが熱戦の幕を閉じた。
開催中、「失われたものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」(ルードウィッヒ・グットマン博士)という障がい者スポーツの理念を表す言葉を幾度も耳にした。
その言葉から、筆者は『稿本天理教教祖伝』に記されている次の場面を想起した。こかん様が「もう、お米はありません」と言うと、教祖は、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子たちを励まされたひながたである。
このお言葉にふれて、私たちが取り違いをしてはならないのは、単に「苦しんでいる人」と我が身を比較して喜びとする意味ではないということである。すなわち、お米がないことに変わりはないけれども、水の味が分かるほどの健康をお与えくだされてある。その与えに感謝することをお教えくだされたのであろう。
反対に「苦しんでいる人」が健康を損なっていることに変わりはなくとも、たとえば子や孫が皆元気で結構などと、いまある与えに感謝することを教えられたのではないか。失ったものではなく、いまある与えに目を向けるのである。
おさしづには「心通り皆映してある。銘々あんな身ならと思うて、銘々たんのうの心を定め」(明治21年1月8日)とある。大意は「銘々の心通りに世上に現してある。それを見て、自分もあんなに病まねばならん身であったらと思えば、(いまある親神様からの与えを喜べるよう)銘々たんのうの心を定めてもらいたい」となる。教語の「たんのう」は「足納」とも言われ、これで結構と、満足の思いを心に納めることをいう。つまり、親神様の守護の中に生かされているということを悟ったとき、自らが置かれている状況を丸ごと受け入れることができるのである。
「失われたものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」とは、たんのうの教えにも通じる、積極的な心の切り換えを促す厳しくも崇高な理念といえる。
(橋本)