兄弟愛が生んだ高松藩松平家 – 日本史コンシェルジュ
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)
250年以上に及ぶ天下泰平の世を築いた徳川家康。彼は九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房に対し、それぞれ尾張(愛知県西部)名古屋、紀伊(和歌山県・三重県の一部)和歌山、常陸(茨城県)水戸に領地を与えました。これが、いわゆる「御三家」の起こりです。
讃岐(香川県)高松藩松平家の初代・松平頼重は、徳川頼房の長男であり、水戸徳川家を継ぐ立場にありました。しかし頼重が生まれたとき、まだ跡継ぎの男子を授かっていない兄たちに頼房は遠慮し、三男を水戸藩主に立てました。それが、あの水戸黄門こと、徳川光圀です。
一方、頼重は常陸下館(茨城県筑西市)五万石の大名に取り立てられ、のちに讃岐高松十二万石に移されました。その後、光圀は甥の綱條に水戸藩を譲り、自身の子・頼常を高松藩主に据えます。本来なら兄・頼重こそが水戸の本家を継ぐべきだったと考えた光圀は、その兄の家系に本家を譲り、我が子を分家の当主としたのです。こうして頼房と光圀の父子二代にわたる深い兄弟愛から、高松松平家は誕生しました。
高松松平家は、彦根(滋賀県彦根市)井伊家、会津(福島県会津若松市)松平家とともに、江戸城では代々、御三家に次ぐ格式の高い部屋を控室とし、幕府の閣僚と討議したり、将軍に直接意見を上申したりできる、特別な資格を与えられました。その高松松平家と井伊家の間に、幕末、慶事が起こります。彦根藩主・井伊直弼の次女・弥千代姫が、のちに第11代高松藩主となる松平頼聰に嫁いだのです。
剣の達人であり、歌道や茶道も究めた直弼は、弥千代姫を慈しみ、茶の心を伝えていました。頼聰が彦根城を訪れたとき、不在の直弼に代わって見事なお点前でもてなした弥千代姫の凛とした美しさに、頼聰が心惹かれ、当時の大名家としては珍しく、恋愛結婚で結ばれたと伝わっています。
2年後、高松松平家に激震が走ります。幕府の大老を務める井伊直弼が、水戸浪士らによって殺害されたのです。高松松平家は水戸徳川家と井伊家の板挟みとなり、難局に立たされてしまいます。
この「桜田門外の変」を機に幕府の権威は失墜し、政局は大きく変わっていきました。そして父を失った弥千代姫の悲しみも癒えぬなか、夫婦は家臣の進言で離縁することになります。
ここから二人の運命がどうなっていくのか、次回ご紹介します。