教史再彩“道のさきがけ”を今に – 「船上即信仰生活」の団参
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界からみえてくるものは――。
昭和10(1935)年10月、教祖50年祭に向けてのブラジル団参はサントス港を出帆。荒れる大海原を越え、約2カ月の船旅を経ておぢばに到着した。一行の船中での生活ぶりは信仰実践そのもので、下船時には船長から賛辞が贈られた。
「船中一行は宗教的精神で横溢しており、秩序整然、他の船客の模範でありました。(中略)船内の甲板掃除から炊事場の掃除までみんなより合って奉仕して下さいましたが、大変結構でした」
(『天理時報』昭和10年12月22日号から)
ブラジルの地への本格的な布教は、昭和4(1929)年の南海大教会提唱による集団移住が始まりとされる。この移住に加わった大竹忠治郎氏(のちの初代ブラジル伝道庁長)はサンパウロ州の奥地に入植。2年後にはバウルー市で単独布教に専念した。
教祖50年祭を翌年に控えた10(1935)年、南米のようぼく・信者に対して、中山正善・二代真柱様がメッセージを寄せられた。
「皆様の従事しておられる開拓草創の大業には、私達の思いも及ばぬ困難が伴っている」「皆様の御活動の益々盛にして御発展の愈々速かならんことを祈って止まない」
労いと期待が込められた二代真柱様のメッセージは、遠く故国を離れたブラジル伝道者にとって「暗夜に燈火」となり、熱い信仰心を奮い立たせる基となった。
大竹氏は“ぢばの声”を励みに、ブラジルから初めてのおぢば団参を提案。船会社との折衝を進めるとともに、東奔西走して広く参加を呼びかけた。最終的に、教信者は二十数人に留まったものの、多くの未信者が申し込み、計150人の団参となった。
迎えた10月17日。一行は、大勢の教信者の万歳の声に見送られてブラジル・サントス港を出帆。ところが、荒れる海や激しい天候に悩まされ、船酔いで体調を崩す者が続出した。
大竹氏は信者二十数人を集めて、団参に臨む心構えを説いた。「道の者は世話をさせていただくという心、即ちこの船はひのきしん船と言われるぐらいにつとめきらしていただこう」と。
信者たちは船内の甲板洗いや、炊事場の掃除など、ひのきしんに率先実動。礼拝堂を設けておつとめを勤め、おてふりや別席初試験の練習、講演会などを実施した。船酔いで床に伏せる人のおたすけにも取りかかり、「船上即信仰生活」といったありようで、船客や船員に大きな感銘を与えた。
出帆から約2カ月後の12月17日、横浜港に到着。20日には、元気いっぱいの姿で、教祖50年祭へのおぢば帰りを果たした。
◇
横浜港に着いた教信者たちを撮った写真(上)には、無事に到着した安堵や喜びの表情が見て取れる。と同時に、船中でひのきしんにつとめきった清々しさも漂っている。その姿は、キリスト教の信仰篤き船長をして「斯様な美しい団体は初めてである」と言わしめたほどであった。
教祖70年祭に向けて、ブラジルを出港し、日本に到着した際のブラジル団参の様子を、動画でご覧いただけます(AIでカラー化)