真心の絆を紡いで – 日本史コンシェルジュ
当時の武家社会では珍しく恋愛結婚で結ばれた、松平頼聰と弥千代姫。徳川のご親藩・高松松平家と譜代筆頭・井伊家の縁組は、両家にとっても幕府にとっても慶事のはずでした。ところが2年後、弥千代姫の父・井伊直弼が桜田門外の変に倒れると、松平家の将来を憂える家臣たちの進言で、二人は離婚することになります。
しかし苛酷な運命も、歴史を揺るがす大事件も、二人の心を引き離すことはできませんでした。二人はそれぞれ相手を思いやる強い気持ちを持ち続け、明治5(1872)年に復縁します。このとき、離縁から9年の歳月が経っていました。復縁に尽力したのは、高松松平家の本家に当たる水戸徳川家と、井伊家の双方と姻戚関係にある、有栖川宮熾仁親王です。妻と死別し、悲しみに暮れる熾仁親王は、「生きて、互いを思い合っている二人が、離れたままでいることはない」と、両家を呼んで調整を進め、復縁させたのです。
廃藩置県以降、東京で暮らしていた頼聰は、明治24年に家族と高松を訪れます。頼聰にとって20年ぶり、千代子(弥千代姫から改名)にとっては初の高松入りでした。以来、千代子は昭和2年に83歳で亡くなるまで、高松を19回訪れています。最後の来訪は亡くなる2年前。このとき、千代子の80歳の長寿の祝いが催されました。汽車と船を乗り継ぐ長旅は、老齢の千代子に堪えたはずなのに、なぜ彼女は高松で祝うことを選んだのでしょう。
明治維新の際に徳川宗家に尽くした高松藩には、莫大な賠償金が課されたうえ、その後は愛媛県に組み込まれたり徳島県に編入されたりと、不安定な状況が続きました。困窮する高松の人々の心の拠り所は、旧藩主・頼聰とその妻・
千代子。夫婦も彼らの思いに応え、屋島や金刀比羅宮などの観光地を宣伝し、地域医療や女子教育に力を注ぐなど、高松の発展に尽くしてきたのです。
お祝いの席では、千代子が設立に関わった女子校の生徒らが、採取した蛍を美しい籠に入れ、短冊に和歌を書き添えて千代子に贈りました。千代子はたいそう喜び、少女たちに歌を返しました。
あつめたる かごのほたるの ひかりにも 赤き心を みするおとめら
赤き心とは、嘘偽りのない心、つまり真心のこと。真心の絆を幾重にも紡いできた高松の歴史は、私たちに美しく心豊かに生きる勇気を与えてくれます。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)