天理時報2022年5月18日号1面
【教祖を慕い尊びて 教祖30年祭 – 教史再彩】モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界から見えてくるものは――。106年前の大正5(1916)年に執行された教祖30年祭。祭典には、全国各地はもとより、台湾や朝鮮半島、中国東北部(満州)、マレー半島などから、教祖を慕う約15万人の信者が帰り集った(モノクロ写真をAI〈人工知能〉でカラー化したのちデジタルで着色処理)信者詰所は、教祖10年祭ごろから徐々に拡充されたが、30年祭では、予想を超える帰参者数に対応しきれず、普通民家の借り入れをもって対応せざるを得なかった。「三島の地はいうまでもなく、隣接せる布留、豊田、河原城の家々は、何々詰所第三出張所、何々教会信徒臨時宿泊所というような貼紙が、軒ごとに掲げられてある」(『みちのとも』大正5年2月号から)教祖20年祭から30年祭までの10年間は、悲喜こもごもの出来事が立て合った。20年祭の翌年の明治40年には、本席・飯降伊蔵が出直されるという節があったが、41年には、難航していた天理教の一派独立を苦節10年で達成。教団の体制が整備され、国内はもとより海外布教にも熱が入った。婦人会が発足して養徳院が創設されるなど、教内に明るさが満ちた。大正3年4月には「大正普請」が区切りを迎えた。神殿や教祖殿、北礼拝場などが竣工して全教は大いに沸き立った。ところが同年12月。“道の芯”として全教を導かれた中山眞之亮・初代真柱様が、病状の悪化により御年49歳で出直された。こうしたなか、5年1月25日に迎えた教祖30年祭。山沢為造摂行者を祭主として執行され、約15万人の信者がおぢばに帰り集った。30年祭は、かつてないほどの大盛況であった。丹波市停車場から神殿へ続く道は「恰も人のかけ橋を架したよう」と譬えられた。また、神殿東西の広場は、早朝から参拝者が詰めかけて身動きも取れないほどで、「蟻の這ひ出づる隙間もなくとか、立錐の余地がないとかいうより外に書きようもない」との記述が残っている。◇30年祭には、大勢の信者が各地から教祖を慕い尊びて、おぢばに帰ってきた。北海道からの団体500人は、教祖のおそばへ帰れることに喜び勇むあまり、道中の汽車の進み具合さえもまどろこしく感じたという。また、東京での乗り換えの際には、時間がしばらくあったので引率者から市内見物を促されたものの、一同の心にその思いは少しも起こらず、教祖のもとへ一刻も早く帰り着きたい一念で、荷物を抱えて東京の町中を一直線に歩き、乗り換え先の停車場へ急いだという。迎える親里では、信者詰所の収容力を拡充して年祭に臨んだが、帰参者があまりに多く、寝る場所や座る場所がなくなって、階段にもたれて一夜を過ごす人もあった。とはいえ、誰一人として不足を言う人もなく、むしろ不自由さを誇りとするくらいだったという。写真は、祭典時の様子を北礼拝場西側から撮ったものである。北礼拝場からあふれそうな教師3,000人と、神苑を埋め尽くす大勢の信者が写っている。真っすぐ殿内を向くその後ろ姿を見ていると、教祖を慕い尊ぶ熱い思いが伝わってくる。, 【提唱90周年 全教一斉ひのきしんデー】報恩感謝の心で 一手一つに日本列島のほぼ全域が厚い雲に覆われたひのきしんデー。3年ぶりに会場を設けて実施する支部も多く見られた(4月29日、宮崎県延岡市の方財海浜公園で)恒例の「全教一斉ひのきしんデー」は4月29日、「報恩感謝の心で 一手一つにひのきしん――家族ぐるみで参加しよう」をテーマに、国の内外で実施された。日ごろのひのきしん活動の集大成として、全教のようぼく・信者が心一つに実動するひのきしんデー。今年は、ひのきしんデー提唱90周年の節目の年とあって、教会、教区・支部の合力で、当日に向けて全ようぼくへ案内を届けることを申し合わせ、こまやかな参加呼びかけを行ってきた。日本列島は厚い雲に覆われ、地域によって激しい雨に見舞われた当日。各地では、新型コロナウイルスの感染拡大を防止する対策を十分に講じたうえで会場に集まって実施した支部のほか、教会やようぼく家庭の周辺で行った支部も見られた。3年ぶりに会場を設けた支部では、久しぶりに顔を合わせた教友たちが再会を喜ぶ姿も。海岸、公園、公共施設などで、和気あいあいとひのきしんに励んだ。一方、大雨のため急遽、会場でのひのきしんを取りやめた支部では、家族連れや個人など少人数で、心一つに報恩感謝の汗を流した。親里でのひのきしんデーの様子をご覧いただけますhttps://youtu.be/4nZ4JrpcX1Y